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伊藤伝右衛門



 万延元年。井伊直弼が暗殺された桜田門外の変があった。西暦一八六〇年、幕末動乱の時代である。
 その同じ年の十一月、江戸から遠く離れた九州は筑前の穂波郡大谷村幸袋に、伊藤伝右衛門は生まれた。
 尊皇だ攘夷だ、開国だ開戦だ、難しいことは幼い伝右衛門には分からない。分かるのは飢えと暑さ寒さ、そして貧しい暮らしを小さく照らす家族の愛だけである。
 伝右衛門の父・伝六は目明かしであったが魚の行商もしていて、生活は決して楽ではなかった。伝六は魚売りの他にも、狸堀と呼ばれる零細採炭をする坑夫で気性の荒い男だったが、伝右衛門はそんな男らしい父が大好きだった。物心ついた頃には、父の真似をして小さな肩に天秤棒を担ぎ、チョコチョコと売り歩いていた。
 近代。日本でも石炭の需要は徐々に高まっていた。とはいえ、明治黎明の日本は、生まれたての赤子も同然。海外は帝国主義の弱肉強食、国内は政権交代の混乱と国際社会からの立ち後れ。近代世界の礎となった石炭だが、幕末から明治初期の日本には、まだ石炭を活用できる技術も設備も乏しかった。
 石炭がおそろしいほどの巨利を産むようになったのは、明治も二十年近くになってからだが、伝六は早くから、今にきっと石炭が重要になると踏んでいた。だから狸堀のような山師仕事に、少ない生活費をつぎ込んでは、いつも素寒貧だった。母は怒るのだが、父は財布が空でも笑い飛ばし、また懲りずに狸堀に出かけていくのだった。
 とはいえ笑ってもいられないほど貧しい時もあって、何にも食べる物が無く家族でうずくまったり、そこら辺の雑草を煮て食ったりすることも珍しくはなかった。
 貧しさや空腹は誰にとっても辛いものだが、まして子供ならなおさらだ。水ばかり飲んでいると、さしもの腕白小僧も泣けてくる。けれどベソでもかこうものなら、父の拳骨が落ちてきた。それに、泣くとますます惨めになるので、伝右衛門は無理にでも笑った。父のように、どんなことでも笑い飛ばしたり怒ったりしていれば、何とかなるような気がした。少なくとも、泣きベソをかくよりは、スカッとする。
「兄しゃん、お腹が減ったばい」
「明日からどげんしたらよか」
 妹や母の泣き言を聞くと、伝右衛門は鬱陶しくなってしまう。弱音を吐いたって天から金や食い物が降ってくるわけじゃなし、それならまだ寝ていたほうがましだ。伝右衛門は父親の後を追って、ねぐらを飛び出した。
「女子はすかん(嫌い)たい、あいつらベチョベチョグチョグチョ泣きよる」
 伝六に追いついて伝右衛門が口を尖らせると、伝六は鼻を鳴らした。
「しかたのなか、女は弱かけん。でもなあ、女はよかぞぉ」
 父が好色に笑うのを、十歳にもならぬ伝右衛門は怪訝に見上げた。
「どこがよか。女々しくて、しろしか(鬱陶しい)だけばい」
「まあ、童には分からんき」
 鼻で笑うと、伝六は逞しくツルハシを振り上げ、振り下ろした。真っ黒になって狭い穴に潜り込む。伝右衛門も手伝って炭だらけになりながら、父の作業を大きな目で見つめていた。
 なかなかうだつの上がらない狸堀であったが、伝右衛門は抗夫仕事が嫌いではなかった。体を動かしていれば不平不満が紛れるし、何よりも採炭は宝探しのようでワクワクした。
 九州の筑豊地方に、川筋者、という言葉がある。北九州を流れる遠賀川周辺の荒くれ者どものことだ。採炭のような重労働に従事する男は、気が強くなければやっていられないが、彼らは喧嘩早く豪放で侠気に富む、悪く言えば粗野な、よく言えば気の良い連中であった。
 男の子は強い者に憧れる。逞しい炭坑夫たちは伝右衛門の憧憬であり、なかでも父は少年のヒーローだった。
 酒と女と博打に興じ、喧嘩ばかりの男どもの間で、伝右衛門は幼少期を過ごした。生活はどうしようもなく貧しかったが、そんな暗さを跳ね飛ばすような川筋男の荒々しい明るさが、伝右衛門は好きだった。
 そんな、貧しくも逞しい伊藤家に、悲劇が訪れた。
 赤貧がたたって母が病没、頑健な父も床につき、子供たちは里子に出されることになったのである。一家離散。慶応三年、伝右衛門わずか八歳のことであった。
 幼いながら九州男児の負けん気強い伝右衛門だったが、この時ばかりは泣いた。いつもの愚痴や小言でもいいから、母の声が聞きたかった。父や妹とも別れ別れになり、叔父に手を引かれながら、伝右衛門は胸が張り裂けた。どんなにひもじい時でも、これほど辛い事はなかった。赤貧には耐えられた伝右衛門だったが、家族との死別や離散には打ちのめされた。
 ほんなごつ(本当)に辛かのは、貧乏やなか。家族がバラバラになるのが、ほんなごつ辛か。
 少年の心に、一家離散の悲劇は深く悲しく刻まれた。
 伝右衛門を襲った不幸は、それだけではなかった。
 里子。貰われ子が、他人の家の飯を食うのである。風当たりの良いはずがない。
 彼を引き取った叔父の家は貧しい農家で、余計者を養う余裕などなかった。親を亡くした、家族離散したからといって、いつまでも同情されることはなく、働かなければ飯は無かった。伝右衛門は涙を拭い、叔父の拳をくらいながら働いた。
 甘えさせてくれる親はない。喧嘩できる兄弟もない。肩身の狭い居候生活、それでも食わせてもらえるだけ、まだ有り難いのだ。伝右衛門は黙々、農家の重労働に従った。
 懸命に叔父宅の労働に従事した伝右衛門だったが、長くは面倒を見てもらえなかった。まもなく彼は呉服屋に奉公に出されることになった。
 魚の行商、狸堀、農作業の次は御店者である。まったく勝手の分からない新世界、しかももう、叔父さえいない。伝右衛門はまごついた。新入りの丁稚を、先輩たちが小突き回す。
 慣れぬ仕事や環境の変化に、伝右衛門は何度逃げだしたくなったか分からない。だが逃げても行く場所はないのだ。同年代の子供が親に甘えたり盆正月に晴れ着で飾っているなか、伝右衛門は呉服屋に勤めていながら替えの着物一枚もなく、すり切れ垢じみたぼろをまとって、じっと孤独に耐えていなければならなかった。
 貧しさを恨んだ。己の不幸を恨んだ。しかし、恨みや憎しみは、長くは続かなかった。父譲りの豪放な九州男児の血が、いつまでも恨みがましい粘ついた気持ちでいることを潔しとしなかった。
 恨んでどうなるとばい。愚痴ってどうなるとばい。親父が弱音ば吐いたこつがあったか。泣き言ば漏らすんは金玉のない女がするこったい。
 伝右衛門は、歯を食いしばり働いた。他の子供達は寺子屋に通っていたが、食うや食わずで精一杯の伝右衛門が、読み書きを習えるはずもなかった。貧しいことや寺子屋に通えないことなどで、伝右衛門は周囲の子供達にからかわれることがあったが、伝右衛門は泣くよりもそんな連中に掴みかかっていった。
 苦しい生活のなか、瞼に浮かぶのは生き別れた父や妹のことである。辛い境遇とはいえ、丁稚をしていればどうにか食わせては貰えるけれど、食えなくても家族と暮らした頃のほうが何倍も幸せであった。伝右衛門は思う、俺は必ず炭坑で当てて貧乏から抜け出し、バラバラになった家族ば集めて、でかい御殿に住んでやる。
 そして、明治二年。伝右衛門の炭坑への思いと呼応するかのように、鉱山解放令が発布された。誰でも願い出れば採掘が出来るようになったのである。このため、各地で山師や荒くれ者どもによる濫掘が始まった。それを収拾すべく明治六年に日本坑法が公布、これまでの採掘許可は一旦取り消され、許可制がとられた。
 鉱山解放令で一度ブームになった採炭であるが、筑豊の炭鉱業が軌道に乗るには、明治十四年まで待たなければならない。
 電気も石油も機械も、便利なものは何も無い時代。採炭作業はカンと経験に頼った手堀であり、しかも炭山には水や地圧、ガスなどの壁が立ちふさがっていた。とくに排水は難事で、成功した者がいなかった。
 何度も失敗しながら、伝六は決して採炭を諦めなかった。息子伝右衛門も、丁稚、行商、船頭などをしながら、父の夢についていった。なぜに伝六はこれほど石炭にこだわったのか。意地や夢もあったろうが、何か天啓のようなものに貫かれているかのようであった。幕末、明治、時代の動乱、西欧化、機械化。必ず炭鉱業は時代を担う産業になる。伝六は信念と意地をかけて、ツルハシを振り続けた。
 伊藤父子が貧困の苦汁を舐めながら採炭事業に汗する間に、世間では廃藩置県があり、徴兵令が発布され、西南の役があった。この西南の役の際、十六歳の伝右衛門は官軍の兵士として参加したが、それは日当五十銭という高給に惹かれたためである。官軍は勝利をおさめ、薩摩の英雄西郷隆盛は自刃して果てた。
 そして明治十四年、伝右衛門が川筋者らしい浅黒く逞しい青年に成長した頃、採炭事業の最難事であった排水問題が解決した。旧大村藩士杉山徳三郎なる人物が、これまで誰も成し遂げられなかった排水ポンプの坑内稼働に成功したのである。
 九州に石炭はうなるほどあったが、取り出す技術がなかった。圧力やガスも恐ろしかったが、最も抗夫を悩ませたのが水であった。しかしその一番のネックであった湧き水問題が解決したのだ。これにより炭鉱業は有望株へと急成長する。
 麻生太吉や貝島太助、安川敬一郎など、地場資産家が北九州遠賀川流域に次々炭坑を開抗。三井、三菱などの中央財閥の目も、筑豊の炭山に注がれ始めた。そうした盛り上がりのなか、長年赤貧に喘ぎ続けてきた伊藤家にも、光明が射し始める。
 筑豊の石炭御三家の一つとされる資産家安川敬一郎の兄松本潜が、伊藤伝六と知り合い意気投合、伝六の炭鉱事業に出資してくれたのである。狸堀を繰り返していた伊藤父子は、小さいながらも炭鉱を経営するようになった。
 まだまだ零細な個人経営ながら、どうにか食うや食わずの生活から抜け出しだ伊藤父子は、小金が入ると飲みに繰り出したり、女郎に手を出したりと、よく遊び、またよく働いた。
 そんなある日の明治二一年。白粉の移り香を漂わせて色町から戻った伝右衛門に、父が話があると言って手招きした。伝六は、二七歳の壮年に成長した息子を、じっと眺めた。
「伝右衛門よ、おまえ、そろそろ身ば固める気はなかか?」
 突然に結婚を勧められ、伝右衛門は軽く酔いから覚めた。
「なんばい、父しゃん」
「実は良縁が持ち上がっちょうのばい。相手は二四歳とちょびっと年増やけど、まあおまえも二七だし、そげんものやろうとばい。士族の娘だとゆうことばい。どがんね?」
「士族の女が、嫁に来るのか」
 伝右衛門は目を瞬いた。幕府が倒れて二十年そこら、まだまだ封建的風潮色濃い時代。明治になっても身分制は健在だ。士族の娘といえばそれなりに由緒ある令嬢である。そんな娘との縁が持ち上がったくらいであるから、伊藤家の炭鉱業もだんだん軌道に乗りつつあった。
「……美人かいな?」
 伝右衛門が少し照れながら父をつつくと、伝六は首を捻った。
「知らんき。どがんね、所帯ば持つか?」
 伝右衛門は一瞬唸ったが、やがて頷いた。
「父しゃんが決めたことなら、それでよかよ」
 こうして伝右衛門は、明治二十一年、二十七歳でようやく妻を娶った。相手は士族の娘ハル。
 二十四歳の花嫁と二十七歳の花婿なら、現代ならまあ適齢期だろうが、明治においてはやや晩婚といえるかもしれない。とはいえ、酒と女と喧嘩を愛する川筋男である。結婚が遅かったからといって、純潔であったわけがない。そしてもちろん、結婚したからといって女好きがおさまるはずもない。
 幼い頃は当然女に興味は無かったが、成長した伝右衛門は父に負けぬ助平になっていた。しかも青年伝右衛門はなかなかの男ぶりで、そこそこの金と風采に、底抜けな好色と、三拍子揃ってしまったのだから、女遊びは止まらない。
 妻がいながら伝右衛門は多くの妾を持ち、手を着けた女を家に引き入れたり、外に子を産ませたり、他所に妾を囲ったりと、やりたい放題であった。しかしハルは、伝右衛門を責め立てることなく、じっと耐えた。武家の女としての忍耐、九州の男尊女卑の土地柄もあったが、何よりも子が無いという負い目が、ハルに辛抱を強いていた。そしてまたハルが何も言わないものだから、伝右衛門も妻がひどく傷ついているなど思わず、思う様女色に浸った。
 別に妻に愛情が無かったわけではないのだが、明治の、しかも亭主関白で有名な九州という土地柄、どうしても女は軽んじられがちであるし、第一竹を割ったような川筋男に複雑な女心を慮るのは不可能だった。
 なんも言わんとなら、ちょびっとくらい遊んでも、まあよかやろう。浮気は男の甲斐性ばい。そんなふうに都合良く解釈し、伝右衛門は鼻の下を伸ばし続けた。
 もっとも、それだけ女遊びが出来たのも、遊ぶに見合うだけの甲斐性があったればこそ。父と二人で始めた炭坑業は軌道に乗り、明治二十六年、伝六は中野徳次郎、恩人松本家の松本健次郎の三人で鉱区二十二万坪の相田炭坑を買収。良質の炭層は伊藤家に安寧をもたらした。
「俺の言ったとおりやろうとばい。これからは石炭の時代たい」
 伝六が胸を張るのを、伝右衛門は感心して見上げた。
 ほんなごつ(本当に)父しゃんはたいしたものばい。炭鉱業の隆盛で俄抗夫が増えたけれど、父しゃんは三十年も前から、石炭の重要性ば見抜いてもろちょったのばい。
 父の先見の明は、たしかにすごいものであった。
「父しゃんはえらいな」
「当たり前ばい」
 伝六はガッハッハと笑った。そして不意に真顔になると、
「これと決めたことば貫くのが、男たい」
 と、重く呟いた。赤貧を乗り越え貫いた信念には、胸に迫る重さがあった。
 父しゃん。伝右衛門は父への尊敬を新たにした。
「ところでな、伝右衛門」
 伝六は毅然とした表情を崩し、言った。
「実は近所の娘に手ば着けてしまってな。童が出来てしもたちのばい」
 ばつが悪そうに頭を掻く。ありゃあ。六十を前にした父の女色健在ぶりに、伝右衛門は呆れた。
「それはめでたかばい」
 伝右衛門は大笑いすると、異母妹の誕生に乾杯した。
 伊藤家の男は好色ではあるが、孕ませて放り出したりはしない。私生児は伊藤家に引き取られ、養育された。
 そんな、一徹で助平な父が亡くなったのは、妾腹の子を引き取ってまもなくの明治三十二年のことだった。
 六十歳、胃ガンであった。
 東京の名医に向かう上京の途で亡くなったのだが、容態が悪化してもはやこれまでと悟ると、皆と酒で乾杯して別れを告げたのである。湿っぽい所のない、潔い往生であった。
「父しゃんは最後まで豪快な男やったとな」
 伝右衛門は、尊敬していた父の死を嘆き悲しむよりも、盛大な葬儀で父の最期を飾った。
 不幸を乗り越え、伝右衛門は父の遺志を継いで伊藤家を隆盛に導いていった。
 明治三十四年、日本初の近代製鉄所たる八幡製鉄所が設置。その原料炭に伝右衛門の炭山が買収され、大きな利益を得た。明治三十六年には、伝右衛門は衆院議員にも当選した。
 しかしなんといっても、伊藤家の莫大な財の礎となったのは、牟田炭坑の成功である。
 明治三十一年、伝右衛門は中野徳次郎と共に牟田炭坑を開抗した。しかし手を着けてみると、牟田炭坑の石炭は硫黄混じりの粗悪なものであった。
「これはいかん。伝ネムしゃん、(伝右衛門の愛称)やめておきましょう」
 中野徳次郎は牟田炭坑から手を引こうとするが、伝右衛門は諦めなかった。
「いや、こんヤマは、当たりたい」
 明治三十八年、伝右衛門は牟田炭坑の採掘を続けるため、せっかく好調であった相田炭坑の権利を中野に譲ってしまった。
 掘っても掘っても続く粗悪で貧弱な三尺層、だが伝右衛門は偏執的に掘り続けた。幼い時から父について学んだ抗夫のカンが、これは優良なヤマだと告げていた。
 これは絶対によかヤマばい。死んだ父しゃんがそう言っちょう。
 父と駆け抜けた抗夫人生のすべてを賭けて、伝右衛門は牟田炭坑に挑んだ。これでもし牟田炭坑から優良な石炭が出なければ、丁稚小僧から国会議員にまでなった伝右衛門は、四四歳にして裸一貫に逆戻りである。しかし彼は、自分のカン、父が遺してくれたヤマを見る目を信じて疑わなかった。
 これと決めたことば貫くのが、男たい。
 がむしゃらに牟田炭坑に取り組む伝右衛門の傍らで、妻のハルが何も言わずに見守っていた。
 そしてついに伝右衛門は、牟田炭坑の良質な五尺炭層を掘り当てたのである。
「どがんね、父しゃん! 俺はやったぞ!」
 伝右衛門は快哉を叫んだ。
 日露戦争の戦勝景気の追い風もあり、牟田炭坑は伊藤家の大きな財産となった。
 筑豊の石炭王、伊藤伝右衛門の誕生であった。

 炭鉱業の発展は、筑豊の町の発展であった。抗夫らがひしめきヤマは活況を呈した。もちろん炭坑に事故はつきもので殉職者も少なくなく、労働も過酷ではあったが、彼らの生活は石炭の上に成り立っていた。学校や病院が作られ鉄道が走り家々が立ち並ぶ。
 炭鉱業で成功し、政界にも進出した伝右衛門は、多忙を極めた。
 明治三八年、議員として大陸を視察、遠賀川改修工事運動を展開、三九年遠賀川改修工事計画が帝国議会を通過。明治三七年、第十七銀行(後の福岡銀行)取締役に就任。この銀行は炭坑への不良債権で経営が煮詰まっており、伝右衛門は担保物件であった中鶴炭坑の採炭に着手した。これは炭が採れないともっぱら評判の不良炭山で、炭鉱界の重鎮らが口を揃えてやめておけと忠告するようなヤマであった。
 だがここでも牟田炭坑同様、伝右衛門は己の目を信じ、大物たちの忠告を振り切り、開発に踏み切る。はたして明治三九年、失敗確実と思われた中鶴炭鉱は大当たり、銀行の債権問題は一気に解消した。
 明治四一年政界を引退、翌年泉水炭坑開坑。宝珠山炭坑を取得。話は前後するが明治二十年代、伝六と中野徳次郎の出資で幸袋工作所を発足。二九年に合資会社となり、筑豊随一の工場へと成長、筑豊の炭坑の機械工業を支えた。
 明治という気骨溢れる時代の石炭王の活躍は、炭鉱業界やその周辺だけでは終わらない。
「伝ネムしゃん、どうかお願いします」
 明治も押し迫った四三年。郡の役人一同が、伝右衛門を拝み倒していた。
「まあ、出してやってもよかけどな……」
 伝右衛門は興味が薄そうに鼻毛を抜きながら言った。女学校設立のための寄付を頼まれているのである。伝右衛門は役人らに拝まれながら、どうも気乗りしない様子であった。
 伝右衛門はケチではない。むしろ父譲りの豪放な男だ。赤貧から一代で身を起こせたのも、己一人の力ではない。得た利益を地域社会に還元するのは当然だと思う。貧乏な郡の財政に代わって女学校の一つや二つ、建ててやってもよいが、伝右衛門はあまり女子教育に関心が無かった。
「金ならなんぼでも(いくらでも)あるき、世の中にお返しするのはよかけれど、女の学校なぞ建ててどげんするたい」
「それはもう古くさか考えとち、伝ネムしゃん。女子にも教育が必要とゆうのは識者の常識ですし、産業の発展に反して廃れていく道徳ば正すためにも、健全なる家庭ば守る賢明なる女子の教育が必要なんですたい」
「女は愛想があれば十分ばい。それで色気があればよかたい」
 伝右衛門は欠伸をした。明治の九州男児、妾を囲い放題の伝右衛門の女性観は、当然低いものだった。
「麻生しゃんは、郡に病院ばお建てになっちょうとですよ」
「なんだって?」
 同じく九州の石炭王麻生太吉が病院を設立したと聞いて、伝右衛門はようやく背を正した。
「分かった、麻生しゃんが病院ば建てたのなら、俺もグチャグチャこまい(細かい)ことは言わんき。女学校ば寄付してやるたい」
 言い切り、伝右衛門は女学校設立の費用全額を寄付した。さらに剛腹なことに、彼は出資するだけで女学校の運営に一切関与せず、何の条件もつけなかった。
 金は出す、口は出さないという伝右衛門の太っ腹に、役人たちは感服した。
「さすがは川筋男児の伝ネムしゃんばい。学校名には是非、伊藤の名ばお入れしまっしょ」
「こしゃらくさい、そげん見栄坊な真似はしとうなか。やめてくれ」
 伝右衛門は固く断った。口は出さない、手柄も顕示しない伝右衛門であった。
 伝右衛門は後の大正四年にも、社団法人伊藤家育英会を発足しているが、これもまた、奨学金返還不要、奨学生の奉公不要、一切の見返りを求めない異例の機関である。
 この他、地域の農芸推進のための伊藤農園開設など、伝右衛門は様々な方面に貢献した。そのきっぷの良さは、故郷を愛する川筋者の男伊達であった。

 財界政界教育と八面六臂の活躍をする伝右衛門、隆盛を誇る伊藤家であったが、不幸は突然やってくる。零細炭坑主の時代から苦楽を共にした妻・ハルが逝去した。明治四三年、四五歳の若さだった。
 大切なものは失ってはじめて分かる。妾と遊んでばかりいた伝右衛門は、妻の訃報に愕然となった。
 苦労の多い妻であった。黙って夫の身勝手についてきてくれた女だった。辛抱強い女だった。伝右衛門は、妻の墓に合掌した。
 しかし、ゆっくり悲しんでいる時間はない。筑豊は、九州はおろか日本有数の石炭産出地、その雄ともなれば、直ちに後添えが必要となる。
「早速次の嫁か」
 亡妻の一周忌も済まぬうちに押し寄せる縁談に、女好きで妾だらけの伝右衛門も、さすがにため息をついた。
「よかさ。女ば忘れるには、女が一番たい」
 伝右衛門は哀惜を振り切るように、縁談に腰を入れた。女はいくらでもいるが、まさか芸者や馴染みの女中を伊藤家の正妻に据えるわけにもいかない。
「ハルよりもよか女でないと承知せんぞ。特上の美人ば持ってこい!」
 伝右衛門は縁談を千切っては投げ、怒鳴った。
 複数の候補のなかから、一番の良縁、伯爵柳原前光の娘・Y子が選ばれた。
「華族のお嬢様かい」
「それも皇太子殿下のイトコとゆう、どえらいお姫様とやが(すごいお姫様らしいよ)」
 伝右衛門の後添えとなる女性のとてつもない高貴な身分に、伊藤家とその周辺は浮き足立つことしきり、さすがの荒くれ男どもも、皇太子殿下に連なる姫君と聞いては怖じ気づいた。
「フン、なんばえずがっちょうの。(なにを怖がっているのさ)殿下のイトコとはいえ、妾の子やないの」
 泡を吹く面々に冷たく言い放ったのは、伊藤家女中頭のサキである。四十がらみの年増女であるが、ハルの存命中からの伝右衛門の愛人で、ハル亡き後は伊藤家の主婦の実権を握っているといってもよい女だった。家事を取り仕切るのは無論、怒鳴り込んでくるチンピラをあしらったり、大勢の家人にバシバシ指示を出して伊藤家を切り回す。妾、女中とはいえ、炭坑の荒くれどもを総括する伊藤家を支える女丈夫である。恋敵が皇太子殿下の御身内だろうと、恐れ入らない。サキの鼻息に、これは一波乱ありそうだぞと、野卑た男たちはニヤリとした。
 ところでサキの言うとおり、柳原Y子は皇太子――後の大正天皇のイトコではあるものの、伯爵柳原前光の妾腹の娘であった。それもいわゆる出戻りで、伝右衛門とは初婚ではなかった。
 とはいえ彼女はまだ二十七歳、大正三美人の一人に数えられるほどの艶姿の持ち主で、東洋英和女学校を卒業し、佐佐木信綱に師事した歌人という才媛である。高い身分と教養、さらに若さと美貌を備えた深窓の姫君であり、いくら伝右衛門が大富豪とはいえ、叩き上げの五十二歳の男に嫁ぐには、あまりにも世界が違いすぎる。
 この親子ほど年の離れた、それ以上に教養と価値観の離れた二人の縁談が固まったのは、もちろん双方の自由恋愛の結果などではない。Y子の腹違いの兄・義光の貴族院出馬のために、伊藤家の富が必要とされていたのだ。また叩き上げの伊藤家にとっても、Y子の家柄は魅力であった。
 誰の目にも明らかな政略結婚。売られるがごとく炭坑の町に嫁いでいく美貌の花嫁に、世間は同情することしきりであった。

 金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう

 そんな歌が世間を流れるなか、明治四十四年、東京は上野で、伝右衛門とY子の結婚式が華々しく行われた。政略結婚ではあったが、若く美しい花嫁に、伝右衛門はまんざらではなかった。これほど美しい令嬢なら、ハルを忘れさせてくれそうだった。花嫁の美貌は能面のように固まっていたが、伝右衛門は鼻の下が緩んでいた。
 こんはえらい美人ちゃなかとね。よかねよかね。
 伝右衛門は内心小躍りした。
 東京での結婚式を終え、伝右衛門は新妻を連れて筑豊に戻った。道中、伝右衛門は嬉しがって新妻に話しかけたが、Y子は答えなかった。
 愛想のなか娘たい。いや、緊張しちょるのやろうとばい。
 伝右衛門は、親子ほども年下のY子の無愛想を、生意気に思うよりもおぼこらしいと思った。
 二人は筑豊に到着し、伝右衛門はY子に先だって一等車から下りた。
 伊藤家の広大な屋敷は、花嫁のために改装されていた。大理石のマントルピースなど盛り込んだ豪華な洋間が作られ、玄関の段差が低くなっていた。恋愛結婚ではなかったが、伝右衛門なりに新妻を大切にしてやるつもりだった。
 だが、伝右衛門がいそいそと、Y子が休んでいる部屋に行ってみると、可愛い新妻は白皙の頬をシクシク涙で濡らしているではないか。
「ど、どげんしたと(どうしたのだ)」
 伝右衛門が戸惑うと、新妻はさらに面食らうことを言った。
「あなたは平民であるのに、貴族の私を差し置いて、先に車をお降りになったではないですか」
 なんという侮辱と、Y子はよよと泣き崩れた。これにはさすがの伝右衛門も、呆気にとられて立ちつくした。
 あちゃあ。これはとつけもなか(とんでもない)嫁ば貰ってしもたばい。
 Y子の傲慢なまでの貴族の誇りに、伝右衛門は呆れてしまった。
 幸袋での披露宴は延々実に三日にも及び、花嫁の艶姿に田舎者たちは感嘆した。
「なんて綺麗な嫁御やろ。あれが華族の姫様ゆうもんかぁ」
 Y子の美貌、金に任せた豪華な衣装に、伊藤家一同ため息をついた。だがY子は得意になるどころか、怒りと屈辱に泣かないでいるのがやっとだった。伊藤家での披露宴は東京でのそれと違って、田舎者どもが無遠慮に近づき臆面もなく見つめるのである。
「どがんね、美人やろうとばい。Y子、打掛ば見せてやれ」
 皆が花嫁の美しさに感嘆するのに伝右衛門は上機嫌になり、Y子に何度も立ち上がって花嫁衣装を見せてやるよう、命じた。しかし貴族のY子にとって、それは拷問に等しかった。
 永遠に続くような披露宴がようやく終わり、Y子を待っていたのは、眩暈のするようなカルチャーショックであった。
 まず、筑豊弁が何を言っているのか分からない。東京の公家に育ったY子には、荒っぽく早口な筑豊弁は、日本語どころか未開人の言葉のようだった。
「きさん、たいがいにしちょかな、ぼてくりまわすぞ!(貴様いいかげんにしないとぶっ叩くぞ!)」
「しゃあしい、こしゃくらしい!(うるさい、小癪な!)」
 こんな怒号が平気で飛び交うのである。そんな喧嘩っ早いヤマ男どもに、
「しゃあっしゃあ! こまいことでとごえんな、Y子がえずかろうが。ぶちまわすぞ!(やかましい! 小さな事で暴れるな、Y子が怖がるだろう、ぶん殴るぞ!)」と、伝右衛門が一喝するのだからたまらない。粗暴な炭坑夫たちも恐ろしいが、それらを統率する伝右衛門は、まるでやくざの親分であった。
 伝右衛門が無学な男だとは聞いていたが、まさかこれほど粗野な人間だったとは。Y子は怯え、驚愕した。
 縁談が持ち込まれた時、Y子は気乗りがしなかったが、すでに前回の不幸な結婚で、結婚そのものには希望が持てなくなっていたので、政略結婚であることはもうどうでもよかった。その代わり彼女が希望を見出したのは教育や福祉であり、Y子は無学な夫を補い、彼の財産を福祉に役立てよう、そう思っていた。
 この縁談でY子の興味を惹いたのは、伝右衛門が建てたという女学校であった。
 前夫の子爵北小路資武はひどい放蕩者で、十六歳で嫁いできたY子がなつかないのに対して「妾の子を貰ってやるのだぞ」と言い放つ男であった。Y子はこの時はじめて自分が妾腹だということを知った。ショックを受けるY子に、夫は一つのいたわりもなかった。
 生まれた時から結婚するのが決まっていた北小路資武との夫婦生活は、一子までもうけたものの、五年で幕を閉じた。子供は北小路家に引き取られた。
 若い結婚と悲惨な失敗、離婚の傷心と出戻りという立場。鬱屈した彼女の慰めは詩作であり、東洋英和女学校での勉学であった。
 だからY子は、伝右衛門が女学校を持っていると聞き、東洋英和女学校の束の間の青春を思い出し、女学校運営を再婚生活の希望にしたいと考えていた。
 だが伝右衛門の粗暴に続いて、彼が寄付した女学校の運営を、伊藤家は一切放棄していると知り、Y子は愕然とする。
 そのうえ、伊藤家は信じられない大所帯で、養子は二人もいるわ妾の子もいるわ、しかも妾も本宅に同居していて、主婦の実権を握っているのはY子ではなく女中頭ときている。なんという家か、親類縁者も愛人も全部一つ屋根の下に集めたような家である。
 正妻と妾を同居させるというのは、いくら男尊女卑の時代とはいえ、少々非常識と言わざるをえない。だがそれは、伝右衛門の粗野や無神経のためというより、幼少時の一家離散のトラウマのためであったかもしれない。バラバラになった家族を一つに集めて皆で暮らすことは、伝右衛門にとって富に勝る幸せであったのだ。
 しかし、伝右衛門は幸せでも、Y子はたまったものではない。女中頭のサキと主婦の座を巡って火花を散らし、夫に彼女を追い出すよう訴えても聞き入れられない。もっともそれは、ただサキが伝右衛門の愛人だからというだけでなく、女丈夫の彼女でなければ荒くれどもをあしらい伊藤家を切り回すことが出来なかったからなのだが、Y子は正妻で貴族の自分が、妾の女中に負けたように思えた。
「へえへえ、お綺麗な奥様はなんもせんでん(何もしないで)座ってもろちょったらよかです」
 サキは表面だけ敬って明らかにY子を嘲りながら、家庭を取り仕切った。
 何もかもが思い通りにならない伊藤家に、Y子は改革に乗り出した。
 伊藤家の子供らの筑豊弁を改めさせ標準語を教え、使用人には一段下がるように命令し、パン食を導入したり水洗トイレを設置させたりした。
「筑豊弁は下品です、やめなさい。私のように東京の言葉を使いなさい。使用人などと一緒に食事をするのはよくありません。女中や下男は身分の別をわきまえなさい。子供たちはこんな田舎の程度の低い学校に行くのではなく、東京のちゃんとした学校に行って勉強するべきです」
 Y子の言い方に、家人は眉を寄せた。
「俺達の言葉は汚いんか」
「筑豊の程度ば低かゆうとか」
 大正という時代やY子が育った環境を考えれば、彼女が筑豊の人々を見下すような言動を取るのは、幾分仕方のないことだったろう。現代の目で見ればY子は傲慢な女とうつるかもしれないが、おそらく百年後の人から見れば今の我々も差別偏見にまみれた人間とうつるだろうし、時代というフィルターをはずせば、彼女は優しい女性であったかもしれない。
 しかし、自分たちの言葉を下品と言われて子供たちが喜ぶわけがなく、何でもかんでも東京式を押し進めようとするY子に、伊藤家の面々が反発したのは当然であった。
「なんばい、あん嫁御は。お姫様だか知らんきが、天狗になっちょうん」
 子供たちは地面に唾を吐き、女中らは舌打ちした。家人はY子の言うことをきかず、Y子から離反しサキのほうに従った。
 Y子とサキの対立、俄に東京式になって困惑する家人、伊藤家の大所帯は刺々しい空気に包まれた。
「家のことは私が旦那様から任されちょうき、奥様に勝手なことばされては困るき」
 言い放つサキに、Y子は屈辱と怒りに震え、泣いた。
 これはたまらんきな。
 女たちの陰湿な戦いに、伝右衛門はため息をついた。湿っぽいのは大嫌いである。
 ばってん、これは俺のせいでもあるきな。
 Y子の独善にうんざりするものの、たとえY子がわがままなのだとしても、夫として妻を一つも庇ってやらないことに、伝右衛門は呵責を感じた。
 孤立を深めたY子は、伊藤家の外に世界を求めた。
「こんな炭坑町の粗野な連中なんて相手にしても仕方がないわ。もっと教養の高い人たちと交わろう」
 Y子は別府の別荘に、地域の文化人を集めサロンを形成した。この別荘は「あかがね御殿」と呼ばれた壮麗なもので、総工費八十五万円の大邸宅である。大正期の一般家計が月約三十円、単純に当時の一円が現在の一万円と考えると実に八十五億円という大御殿だ。無論、金を出したのは伝右衛門で、彼はY子のためにポンと八十五億を出して別荘をあつらえてやったのである。若い後妻に相当鼻の下が伸びていたようだが、それだけでなく、家庭で孤立してしまった妻への、せめてもの償いであった。
 俺はせわしゅうて(忙しくて)構ってやれんき、これくらいはしてやらんきな。
 仕事で飛び回って家を空けがちな伝右衛門は、あかがね御殿に新妻への詫びの気持ちを込めた。もっとも、Y子にすまなく思いながらも、多忙の合間を縫ってしっかり妾宅に通うあたりは、やっぱり伝右衛門である。川筋男の女好きは直らない。
 もはや伝右衛門の好色は、道徳が云々というより伊藤伝右衛門という人間を構成する人格の一つであって、彼を愛するならその女好きもひっくるめて愛さなければならないだろう。だがY子には、そんなことはとても出来なかった。もともとが政略結婚であったうえに、妻の地位をないがしろにされ、さらに浮気放題では、Y子でなくても誰でも辛抱できないだろう。ましてY子は貴族の令嬢、清楚な文学少女なのだ。伝右衛門の生臭さがどうしても好きになれない。
 なんて不潔な男だろう。粗野で無学で、そのうえ獣欲も獣並。ああ嫌だ嫌だ、たまらない。
 Y子は、床で伝右衛門の手が触れるのに、鳥肌が立った。ついに堪えきれなくなり、彼女は夫と同衾するかわりに、伝右衛門に若い女をあてがった。
「おまえが俺に妾ば斡旋するのか」
 妻が夫に妾を勧めるとは。妻の傍らで浮気放題の伝右衛門も、さすがに驚いた。
「真心のない肉欲だけの交わりならば、何も夫婦間でなくてもよろしいでしょう。むしろ、夫婦間に獣欲しか存在しないのならば、結婚を冒涜するようなそんな行為はやめるべきです」
 ぴしりと言って、Y子は伝右衛門から顔を背けた。ここまで拒絶されては、さすがの助平親父伝右衛門も同衾する気になれない。
「分かった」
 短く答え、伝右衛門は寝室を出た。夫が出ていき、Y子は安堵の息をついた。
 伊藤家にも夫にも絶望したY子がすがったのは、柳原家での出戻り時代同様、やはり詩作であった。彼女は苦しい心のうちを歌に吐き出し、大正四年に歌集「踏絵」を刊行した。その費用を出したのは、無論伝右衛門である。あの有名な竹久夢二が装幀した、革表紙の豪華な本であった。

 ゆくにあらず帰るにあらず戻るにあらず生けるかこの身死せるかこの身

「踏絵」の中の一首である。どこにも行けぬ、生きるか死ぬか。凄まじい心情といえよう。これが再婚生活でのY子の胸の内であった。豪邸を与えられても、贅沢ではY子の心は満たされなかった。この傲慢なまでに誇り高い高貴な女性が求めていたのは、金や世俗的なことではなく、もっと崇高な何かだったのだろう。
「白蓮しゃんは伝ネムしゃんのお金で本ば出しちょうて、ボロクソに言っちょうな」
 出版された歌集に並べられたY子の不平不満に、眉をしかめる者もいた。白蓮というのは、Y子のペンネームである。本を出させてやったのに、その内容が辛い悲しい恨みますというようなことばかりなのだから、伝右衛門は良い面の皮である。もっとも、Y子の不平の一因は伝右衛門にあるのだが。
 伝右衛門は、歌集について文句を言うことはなかった。もちろん気分が良いわけがなかったが、二回りも年上で艱難辛苦を乗り越えてきた男には、妻の愚痴を聞き流す程度の度量はあった。
 所詮は女の小言たい。そんであいつの気が済むなら、放っておけばよか。
 Y子には魂を絞るような歌も、伝右衛門には詩作などお遊戯のようにしか見えなかった。
 伝右衛門にとっては、Y子のあかがね御殿のサロンも文化人との交流も遊びにしか見えず、彼女がサロンのインテリ男と軽い恋愛遊戯をするのも、猫がじゃれているのと変わらなかった。そして伝右衛門は、Y子の第二第三の歌集も、快く出版させてやった。
「ま、女のわがままなんか可愛いもんたい」
 伝右衛門はうそぶいた。家人とギャアギャア喧嘩をされるよりは、戯れ歌でも詠んで大人しくしてくれているほうが、ずっと良かった。Y子がサロンに入り浸り、嘆きの歌を詠んだり、伊達男の大学教授などとのラブ・アフェアを楽しんだりするのを、伝右衛門は一切咎めなかった。
 伝右衛門のY子への寛容は、寛容というよりも女性に対する侮りであったかもしれない。
 伝右衛門が鼻で笑うY子の文化活動であるが、そのサロンには高浜虚子、菊池寛、九条武子など、そうそうたる面々が集う、立派なものであった。とくに九条武子とは、深い親交を持った。九条武子は歌人であり西本願寺宗主の次女という家柄、さらにY子と双璧をなすような美女である。気位の高いY子も彼女には心からの友情を感じることができた。
 これほどに美しく身分が高く教養のある人なら、私の親友として相応しいわ。
 教養といい身分といい美しさといい、まるで自分と姉妹のような武子に、Y子は異郷ではじめて仲間を見つけたように思うのだった。親しくなり、互いの悩みもまた満たされぬ結婚生活にあると知ると、Y子はますます武子との絆を強く感じた。
「まあ私たちはなんて似ているのでしょう。高貴な身に不幸を負って、同じ苦しみに喘ぐ私たちは、きっと他人ではありませんわ。私たちは姉妹でしてよ」
 Y子と武子は、固く手を握りあった。
 しかし、一見よく似ているように見える二人は、実はまったく正反対の女たちであった。
 武子がまさに薄倖美人、美しく儚い弱い女であったのに対して、Y子は己の意志を貫き通す強い女だったのである。

 伝右衛門とY子の夫婦生活は、欠片の愛情も幸福もないかのようであったが、一つも人情味がないわけではなかった。伝右衛門が病に倒れた際にはY子は看病しているし、大正六年の筑豊疑獄事件には、夫を庇って証言台に立った。愛してはいなくても、一緒に暮らしていれば、憎み抜くということも出来ない。
 誇り高く精神に重きを置くY子と、叩き上げの豪快な伝右衛門では、交接する所は無かったが、平行線のままでも結婚生活が続いたのは、まがりなりにも夫婦の絆であったのだろう。伝右衛門はついにサキを部下に嫁がせ伊藤家から出し、ようやくY子が伊藤家の女主人になるかと思いきややはり切り盛り出来なかったりと、悶着がありながらも、伝右衛門とY子の結婚生活は決定的な破局に至ることなく、十年続いた。
 しかしその均衡も、宮崎龍介の登場によって破れるのである。

 Y子が詩作やサロンの交流に励む一方、伝右衛門は相変わらず多忙であった。
 伊藤農園を開き大正鉱業株式会社を発足させ、育英会を組織しまた女学校に寄付を寄せ、宝珠山炭坑に着手し、傘下のヤマからの総出炭は四十万トンに達した。忙しいのは伝右衛門だけでなく、世情も目まぐるしく動いていた。明治天皇崩御、第一次世界大戦勃発、二十一カ条要求、シベリア出兵、原政友会内閣成立。日本史に刻まれる事件が目白押しである。伝右衛門はすでに政界を退いていたが、日本の産業と経済の一端を担う大実業家が、世間の動きと無関係でいられるはずもない。
 体がいくつあっても足りないような忙しさであり、妻がまた恋愛遊戯にのぼせているようなのは薄々察せられたが、とてもそんなお遊びになど構ってはいられなかった。
「女は暢気たい、お遊戯には付き合ってられんき」
 筑紫の女王などと呼ばれ、歌人として文化人として華々しく活躍する妻に、伝右衛門は呆れて肩をすくめた。
「まあ、女は遊んでいればよか。どうせ女なんぞには、政治の動きや事業のことやらなんやら、しぇからしか(難しい)ことは分からんき」
 伝右衛門が完全に妻を侮り放置している間、Y子は宮崎龍介との恋情を深めていた。今までにもインテリ男とのラブ・アフェアはあったが、今度は遊びではない。それは彼女のはじめての、心底からの恋であった。
「七歳も年下の学生に、一日に何度も手紙を書いて、何度でも会いに行って。もう、相手が若いとか自分が人妻だとか、構っていられない。そんなことどうでもいいくらいに、あの人が好き。私は三五歳ではじめて、恋を知ったのかもしれない」
 龍介との不義の逢瀬を重ねながら、Y子は己の激情に当惑した。今までにも、サロンのインテリ男に夢中になることはあったが、龍介と出会ってからは、それらのことがまるでままごとであったように思えた。いや実際、ままごとであったのだ。龍介以外の恋人とは、肌を重ねたことはなかった。
 Y子を狂わせた宮崎龍介なる男は、どういう人物であったのか。彼は二十八歳の東大生で、Y子より七歳年下である。孫文を助けて中国の革命に尽力した宮崎滔天の息子で、父譲りの理想に燃える大正デモクラシー青年であった。
「維新から半世紀以上経過しましたが、まだまだ日本の社会は、封建的束縛に満ちています。明治以来の藩閥・官僚政治をうち倒し、民本主義を確立しなければ、日本の真の近代化はありえません」
 龍介は改革論を熱く語った。Y子は青年の理想に、うっとりと耳を傾けた。その若い情熱と教育の高さは、Y子を強烈に惹きつけた。金では埋められなかった崇高なものを、青年は持っていた。
 龍介は雑誌「解放」の編集者で、Y子の戯曲「指鬘外道」出版打ち合わせのため、大正九年、あかがね御殿ではじめて彼女と出会った。そして、二人は急速に深い間柄になっていく。
 とはいえY子は人妻、この時代には姦通罪なるものがあった。二人の愛は、当時は犯罪であった。
「どうしてこの愛が罪になるのでしょう。あなたと私は真実愛し合っていて、伊藤と私の間に愛は無いのに。罪になるのはむしろ、私とあなたではなく、伊藤と私の関係だわ」
 理不尽な法律に泣くY子を、龍介は抱きしめた。
「あなたが妻という獄から抜け出すなら、僕は受け止めよう。法的な罪など、真実の愛の前には、どうでもいいことだ」
 不義も姦通罪も、名誉も世間体も、世俗の一切が、二人を止める枷にならなかった。むしろ、障害が、理想に生きる二人の恋情を燃え立たせた。

 Y子め、またどこぞのインテリにのぼせちょうらしいな。
 伝右衛門は、Y子が恋をしているらしいのを、薄々察していた。
 どうせ、遊びやろう。
 伝右衛門は高をくくり、今まで通り黙認して、仕事に飛び回っていた。そんな彼を、Y子は駅まで見送った。
 好かれんのはもうしかたのなかけれど、ちょびっとは可愛いところもあるものばい。
 Y子の見送りに、夫婦の薄い薄い情を感じながら、伝右衛門は京都に旅立った。
 だが、大正十年十月二十二日。
 朝日新聞に、驚天動地の記事が踊った。

『筑紫の女王』伊藤Y子
伝右衛門氏に絶縁状を送り
東京駅から突然姿を晦す
愛人宮崎法学士と新生活?

 Y子の公開絶縁状の見出しである。なんとY子は、新聞紙上にて伝右衛門に絶縁状を叩きつけたのだ。
 それは伝右衛門にとって、まさに寝耳に水の一報だった。
 その時伝右衛門は、京都でY子の兄・柳原義光を訪ね、同宿していた。義光は、妹の政略結婚の支度金で、貴族院議員になっていた。
 伝右衛門と義光は、新聞でY子の三行半を知った。
「なんたい、これは!」
 新聞を見て、伝右衛門は飛び上がった。多少のことでは物怖じしない叩き上げの石炭王も、妻からの公開絶縁状には度肝を抜かれた。
 新聞には、端正な文章で、伝右衛門への決別が綴られていた。

 私は今貴方の妻として最後の手紙を差上げます。(中略)貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従つて此の道を取るに至つたので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱小の結果でございました、(中略)愛無き結婚が生んだ不遇とこの不遇から受けた痛手のために私の生涯は所詮暗い帳の中に終わるものだと諦めた事もありました、然し幸にして私には一人の愛する人が与えられそして私はその愛によつて今復活しやうとしてゐるのであります、このまゝにしておいては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを恐れてます、もはや今日は私の良心の命ずるまゝに不自然なる生活を根本的に改造す可き時機に臨みました、即ち虚偽を去り真実に就くの時が参りました、依つて此の手紙により私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます、私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふために貴方の許を離れます。

 さすがは教養を愛した歌人、名文である。伝右衛門はわなわなと、流麗な文章に食い入った。
 決して仲睦まじい夫婦ではなかったが、伝右衛門が京都へ出立する際、Y子は夫を見送るなど、こんな思い切ったことをする片鱗も見せなかった。好かれていないのは分かっていたが、離婚されるほどでもないと思っていた。それが離縁を申し立てるだけでなく、社会の公器たる新聞にて、伝右衛門の非を叫び絶縁を叩きつけるとは。信じられない。
 しかし、Y子が伊藤家を飛び出すことは、事前から龍介と密かに決めていたことであった。この公開絶縁状も、実は前々から、龍介が属する東大新人会によって綿密に組まれていたのだ。ただ伝右衛門だけが知らず、突然に妻を侮った大きなしっぺ返しを食らったのである。
「Y子……!」
 伝右衛門の胸を、焼けるような怒りが貫いた。不義密通というだけでも不愉快なものを、この仕打ちである。伝右衛門とて散々に派手な女関係を繰り広げたが、Y子はそれを上回る。不義を犯して、それもこれもあなたが悪いのよと新聞に喧伝するなど、それはもはや、ただ浮気しましたというものではなく、世間に対して広く醜聞を告白し、伝右衛門を社会的に侮辱する行為である。
 筑豊の石炭王の顔に、べったりと泥が塗られたのだ。女のすることなど浅はかなものと笑っていた伝右衛門も、こればかりは鼻で笑って流せない。
 伝右衛門は新聞を引き裂くと、同席していた柳原義光が蒼白に腰を抜かしているのを置いて、宿を飛び出した。

 筑紫の女王、何冊もの歌集を出版し、大正三美人の一人に数えられるY子は、九州のみならず、全国的な有名人である。その高貴な才媛が、若い男と逐電したうえに夫に絶縁状を新聞にて叩きつけたのだから、このスキャンダルに日本中がわいた。
 微妙な均衡を保ちながら十年続いた結婚生活は、全国の好奇を集める劇的な破局を迎えたのである。家出したY子と駆け落ちした龍介の居所はようとして知れず、新聞には白蓮事件に対して、山のような投書が集まった。はじめ、投書の多くはY子を同情するものが多かった。何しろあの名文であるし、夫との年齢差や出自の開きを考えれば、彼女が政略結婚と不幸な夫婦生活の犠牲者にしか見えないのも、当然である。
「伝右衛門はひどいヒヒ爺だ。金で華族の令嬢をねじ伏せて泣かせて、けしからん奴だ」
 伝右衛門は妻に公器で三行半を叩きつけられ逃げられたうえに、世間の非難まで浴びることになった。ここまで泥を塗られては、伝右衛門は怒りを通り越して、呆然となった。
 なんたい、これは。俺は女房に不義密通の家出ばされたうえに、新聞で悪口ば言われたとゆうのに、まるで俺がY子ばいびり出したようやなかか。
 二重三重の侮辱である。Y子の仕打ちに世間の反応、踏んだり蹴ったりの理不尽に、伝右衛門は立ちつくした。
 もちろん、不幸な夫婦関係の原因は、伝右衛門にもあった。しかし、彼だけが一方的に悪いわけではない。
 それなら俺にも言い分があるとばい。伝右衛門も筆を取り、「絶縁状を読みてY子に与う」と題して、大阪毎日新聞に反論を載せた。

『お前が俺に送った絶縁状といふものは未だ手にせぬが、若し新聞に出た通りのものであったら随分思い切って侮辱したものだ。…(白蓮という雅号も、石炭堀りであるこの)伊藤の家の泥田の中にゐても濁りにそまぬといふ意味で付けたのだと云ふ其の自尊心、俺はこの十年の間をお前のヒステリーと自尊心とでどの位苦しんだことか。…貴族の娘だ、尊敬されるのは当然だと考へてゐるが、一平民たる俺は血と汗とで今日の地位をかち得た。…叱ったり、さとしたりするとお前は虐待すると云って泣いた。…俺は成る程品行方正だとは云はない。…自覚してゐればこそ、お前が絶えず若い男と交際し、時には世間を憚るような所業迄も黙って見ていた。…舟子(彼が新たに引き入れた妾とされた女性)の事でも、お前からすすめた妾ではないか。…それをお前は金力で女を虐げると云ふ。お前こそ一人の女を犠牲にして虐げ泣かせたのではないか。…十年の夫婦生活が全部虚偽のみで送られるものでもあるまい。よく考えて見るがいい。真実嫌だったら一月で去る事も出来る。何のために十年の忍従が必要だったのだ』

 Y子ほど格調高い名文ではないが、叩き上げらしい木訥とした、説得力のある文章である。世間の反応とは軽薄なもので、最初はY子を悲劇のヒロインに祭り上げていた大衆も、伝右衛門の反駁文が掲載されるや「なんだ、駆け落ちしたY子が悪いんじゃないか。ひどい悪妻だ」と、今度はY子を非難した。
 伝右衛門は怒りに任せて、出版してやった本のことや、結婚初日に自分を差し置いて下車したとY子が泣いたことなど、妻の身勝手を書き立てた。世論はいよいよわき、Y子を唾棄する声が高まった。
 しかし、世間の追い風とは逆に、伝右衛門は怒りを吐き出すうちに、怒髪天の憤りが薄れてきた。書いて吐き出してスッキリしたのではなく逆で、雅号のことだの初日のY子の傲慢だの、そんなことを声高に新聞に掲げるうちに、こんな細かな不満をいちいち公表することが、ひどくせせこましく不愉快に思えてきたのだ。
 こげなことばネチネチいつまでも書いちょったら、きりがなかばい。金玉が腐ってしまうたい。
 いくら侮辱への反論とはいえ、夫婦の不平不満を社会にぶちまけて世間の好奇を買いながら妻を責め立てるなど、豪放な川筋男のすることではない。伝右衛門は連載途中で、筆を折った。
 冷静になった伝右衛門だったが、周囲は上を下への大騒ぎであった。Y子の実家、柳原家の騒動はひとかたではなく、兄・義光は醜聞の責任を取って貴族院を辞去した。格式、世間体を重んじる伯爵家である。直ちに事後処理の会議がもたれた。
 穏便に穏便に済まそうとする柳原家に対して、伝右衛門はY子を姦通罪で訴えることをしなかった。結婚している女の不義は罪であったが、姦通罪は親告罪で、伝右衛門が申し立てなければ成立しないのである。
 たしかにY子は悪妻やったとが、俺にも悪い所はあったのばい。俺はY子ば、いや女ば見くびりすぎちょったとち。女やら可愛いだけの童のような生き物だと思っちょったが、女も一個の人間やったのばい。人間やったとからこそ、Y子はこれほどの騒動ば巻き起こしたのばい。なるほど、Y子のゆうとおり、俺は女の人格ば無視しちょったのかもしれんき。
 伝右衛門は、苦い思いを噛みながら、反省した。思い返してみれば、結婚生活でのY子への気前の良さや寛容は、妻への理解や優しさではなく、軽蔑の余裕であったのだ。伝右衛門は、Y子以上に傲慢であったのかもしれない。
 苦い反省を胸に伊藤家に戻った伝右衛門を、憤懣やるかたない家人が待っていた。
「あんアバズレめ、不義密通のトンズラばこいておいて、なんもかも伝ネムしゃんが悪いと、よくも図々しく言えたものばい。こげな恥知らずな毒婦は、間男と重ねて四つに叩き斬ってくれる!」
 気性の荒いヤマ男たちの憤慨は凄まじく、本当にY子と龍介を血祭りにあげそうな勢いであった。家族が激怒するのは無論、配下の抗夫たちも刃物を掲げて罵倒した。
「しゃからしい!(うるさい)」
 罵詈雑言のなか、伝右衛門の一喝が響いた。血気はやる男たちは、伝右衛門の一声に一瞬、口を閉ざした。
「いっぺんは俺が好いちょった女ばい。貴様ら、絶対に手出しは許さん」
 伝右衛門は、男たちを睨み上げ、低く唸った。怒鳴り散らすのではない押さえた迫力、一代の石炭王の恫喝に、気の強い抗夫らの憤怒も縮んだ。
 伝右衛門は女を軽蔑しY子を傷つけたが、Y子とて伊藤家に馴染もうとせず、伝右衛門を愛そうとしなかった。互いに非はあったのに、公開絶縁で伝右衛門を一方的に悪者に仕立て、世間の好奇を巻き込んだY子の所行は、決して笑えたものではないが、伝右衛門は水に流すことにした。過ぎたことを恨む憎む愚痴る、そんな陰湿は、川筋者の気性に合わぬ。
 伝右衛門は家族を振り返り、さらに言った。
「もう、こん事件については、一切話すな」
 妻の非を不問とする。伝右衛門の潔さに、一門は声もなく感服した。有り余る金をばらまくばかりではない、川筋男の真の心意気である。当主の厳命は守られ、以後伊藤家において、Y子に対する一言の恨み言も語られることはなかった。伝右衛門が一本筋の通った男ならば、彼の一門もまた、天晴れであるといえよう。

 伊藤家では伝右衛門の明快一喝で白蓮事件は終結したが、柳原家ではそうではなかった。Y子は龍介と引き離され幽閉、大正一二年関東大震災の折、ようやく龍介と所帯を持つことが許された。
 伊藤家を奔走し、病身の夫に大勢の食客を抱えた新生活は、経済的には決して楽ではなかったが、Y子は文筆で家族を養いながら、伊藤家の富では得られなかった幸せを得た。激動の昭和を生き、戦後は息子が戦死した苦しみを踏まえて平和運動に身を投じた。晩年は病身を龍介に支えられ、昭和四二年、Y子は八三歳の生涯を閉じた。
 一方、伝右衛門のほうは、以後一切、Y子と関わりを持つことなく、後妻を迎えることもなく、多くの企業組織に参画した。太平洋戦争の際には、陸海軍に戦闘機・艦を献上し、あかがね御殿を海軍に無償で献上した。今でこそ戦争は悪だなどと言えるが、国を守る兵や軍に感謝するのは、考えてみれば当然のことである。
 そして昭和二二年一二月一五日、伊藤伝右衛門は、その剛腹な人生を終えた。八七歳の大往生であった。

 近代を支えた石炭、そして激動の近代の上に成り立っている現代。我々の現在の礎は、ヤマ男たちが築いたといっても良いだろう。炭坑での労働や暮らしに事故や悲惨な出来事はあっただろうが、昔日の抗夫らを現代人が憐憫するのは、傲慢ではないだろうか。
 昔の抗夫の仕事や生活には、貧しく辛いイメージばかりがつきまとうが、彼らは、裕福な現代人から可哀想がられるような、ヤワな男たちではなかったはずだ。俺達は惨めだ虐げられていると泣いて愚痴る、そんな弱い連中では、近代を支えるなど出来はしない。彼らは不遇や重労働に泣いたり己を哀れんだりすることなく、むしろ誇りを持って逞しく生きていったのだろう。
 かつて石炭で栄えた筑豊の経済を、現在支えるのは、もはや石炭ではない。全国の炭山が次々に閉鎖して久しい。歴史は流れ、生活は向上し、人々の記憶も風化していく。
 しかし、いくら過去が薄れても歴史が消え去ることはなく、筑豊の町を歩けば、そこにかつて存在したヤマ男たちの息吹を感じることが出来る。川筋者の語源となった遠賀川、郷土色溢れる筑豊弁、宝憧寺の相田炭坑死亡者之塔。
 薄れゆく記憶の底から、ふと垣間見える、ヤマ男たちの武骨な足跡。
 女好きで乱暴でどうしようもない、でも豪放磊落に逞しく近代を生き抜いた川筋者たちの、からりと乾いた大きな笑い声が、南国九州の蒼天にはよく似合う。
 俺は筑豊の川筋男ばい。
 変わりゆく故郷を、今も昔も変わらない青い空から見下ろしながら、伊藤伝右衛門はそんな胴間声をあげていることだろう。

終わり


■付記■
作中のY子の絶縁状及び伝右衛門の反駁文は、以下のサイトより引用いたしました。

Y子の公開絶縁状
近代日本における恋愛の変容T

伝右衛門の反駁文
あっと九州


あとがき(ちょっと長いです)

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