ホームへ  作品リストへ 怪奇小説へ

米倉事件簿


 美少年


 ×日、××町の公園にて、一少年の死体が発見された。腹部に刺傷があり、殺人事件と思われた。
 早速捜査本部が設けられ、少年の身元に関する情報収集が行われた。少年の遺体に身元を確認できるものは一切なく、捜査は難航、警察は新聞に尋ね人の広告を出した。

 捜査を担当する米倉刑事が、少年の死体を見下ろして言った。
「まだ十七八くらいじゃないか。可哀相に」
 新米の若い米倉は、事件に慣れておらず、被害者に同情を寄せた。やがて彼の前に、少年の検死解剖をした医師が現れた。
「先生、お疲れさまです。何か手がかりになるようなものは?」
「やはり、腹の傷が致命傷だね。死因は失血死だろう。ただ、即死ではなく、刺されてしばらく息があったと思われるね」
「ほう。では、死ぬ前になにか手がかりを残してくれているかもしれませんね」
「そのへんは、私は知らんがね。それからこの坊や、可愛い顔に似合わず、性病を患っていたようだね」
「ヘッ、性病……」
「めぼしい点はそれくらいかな。詳しいところは、後で書類にして報告するよ」
 米倉は唖然と、端正な面立ちをした少年の死に顔を見下ろした。
「子供のくせに性病ね……人とは見かけによらぬものだなあ」
 もしかすると、こいつはとんでもない不良少年かもしれないぞ。米倉刑事は腕を組んで唸った。

 米倉は、少年が死んでいた公園を、調査してみた。刺されてもしばらく息のあった少年が、何か手がかりを残していないか、犯人を示すようなメッセージがありはしないか、目を皿にして見回したが、得られたものは何もなかった。
「どういうことだい、何も残していないなんて。大人しく死んでいったということかい?」
 当てが外れた米倉は、フームと呻いた。

 新聞広告を載せた翌日、六道財閥の令嬢、六道紀代子嬢が、捜査本部を訪れた。
「新聞の似顔絵を拝見して、居ても立ってもいられずに参りました。もしや、もしや武雄さんでは?」
 財閥令嬢の来訪におののきながら、警官は紀代子嬢を案内した。
 死体安置所の前まで来て、令嬢の美貌は蒼白になり、今にも卒倒しそうであった。
「死体を直接にご覧になるよりも、写真で確認なさいますか」
 警官の気遣いに、紀代子嬢はキッパリ首を振った。
「いいえ、私は自分の目で確認いたします」
 儚げに見えて、気丈な令嬢のようである。
 死体安置所の扉が開かれ、横たわる死体を見て、紀代子嬢は息を飲んだ。
「ああ、武雄さん」
 一言言うと、令嬢はその場でくずおれてしまった。

 医務室で正気づいた紀代子嬢に、米倉刑事が尋問した。
「少年の名前は武雄というのですか」
「はい。市原武雄さんとおっしゃる、××中学の学生さんです」
「××中学といえば名門ですね。武雄君とはどういったお知り合いで?」
 紀代子嬢の白い頬が、心持ち桜色に染まった。
「……はしたない話ですけれど、恋人でした」
「ほう」
 米倉は首を捻った。性病を患い、刺殺されたような少年が、名門中学の学生で、財閥令嬢と恋仲であったとは。腑に落ちぬものを感じながら、米倉は質問した。
「武雄君に、何か問題はありませんでしたか? 恨みを買っているとか、そういったことは」
「まさか! 武雄さんは品行方正、修身の鏡のような好青年でしたわ」
「品行方正ねえ」
 米倉は首を捻り捻り、紀代子から話を聞いた。
 紀代子から聞いて分かったのは、殺されたのは市原武雄、××中学五年生の十七歳、奨学金で学業に勤しむ苦学生で、真面目実直な若者であったということだった。
 恋する乙女の言うことであるから、彼女が語る武雄の人柄は耳半分にしても、被害者の身元が分かったのは、収穫であった。

 米倉刑事は××中学に、調査の足を向けた。そこで分かったことは、××中学に市原武雄なる生徒はいないということだった。少年の写真を見せても、学校関係者は首を振るばかりだった。
 どうなっているのか。捜査本部は腕を組んだ。財閥令嬢が嘘を言うとも思われぬから、嘘を言ったのは殺された少年本人であろう。少年は恋人の令嬢に、自分の身分を名門中学の苦学生だと、偽っていたのである。
「やはりろくでもない男だったようだなあ」
 米倉は合点がいったものの、捜査は振り出しに戻ってしまった。
 死んだ少年は何者なのだ。これが分からないと犯人も分からない。
 新聞広告に反応したのは、紀代子嬢だけであった。米倉は再び、六道紀代子に話を聞きに行った。

「何の用なのだね」
 米倉が、御殿のような六道家に赴くと、当主は不機嫌に対応した。
「お嬢様に、殺人事件の被害者のことで、お話をうかがいたく……」
「まったく、大切な娘が無名の少年とつき合っていたというだけでも衝撃であるのに、このうえ事件に巻き込まれるとは。手短に済ませてくれたまえよ」
 米倉は、五分だけだと言われて、令嬢の部屋に通された。
「刑事さん。何か分かりまして?」
 米倉を見ると、紀代子は飛びついてきた。恋人を殺した犯人を突き止めたいのだろう。米倉は首を振った。
「あいにく、調査中でして。紀代子さん、武雄君についてもう少し伺いたいのですが」
「私が知っている限り、何でもお答えしますわ。それが犯人逮捕につながるのでしたら」
「ありがとう。武雄君とは、どういった馴れ初めで、知り合われたんですか?」
 米倉の質問に、紀代子は恥ずかしそうに答えた。
「橋本男爵夫人のパーティーに出席した際、彼はボーイをしていたのです。はじめて社交界に出て、緊張している私を、彼はエスコートしてくれました。男の子なんて皆、乱暴で無神経でいかついのに、彼はスマートで紳士的で礼儀正しかった」
 紀代子は、夢見るような瞳で言った。米倉は手帳に、橋本男爵夫人と書き込んだ。

 橋本男爵家を訪れると、夫人はひどく突っ慳貪だった。
「まあ殺されたんですの。物騒だこと」
 夫人は眉を寄せたが、舞台俳優のように大げさな表情で、それはいかにもとってつけたような驚きのように見えた。
「はい、市原君はたしかにうちで給仕をしておりましたが、臨時雇いですし、私たちとはもう関係のない少年ですわ。彼の氏素性など、詳しいことも良く知りませんの」
「新聞広告をご覧になりませんでしたか」
 臨時雇いとはいえ知り合いが殺されたのだから、広告を見て反応してもよさそうなものである。先ほどの芝居がかった驚きといい、夫人は広告で市原武雄の死をすでに知っていたのではないか。彼が身元不明となっていると知りながら、警察に通報せず知らんぷりを決め込んでいたのではないか。夫人の素っ気ない迷惑そうな態度は、米倉の不審を強めた。
「まさか市原君だとは思いませんでしたの。あの似顔絵、似てないんじゃございません?」
 市原武雄は女形のような美少年であったので、そうそう人違いをするとも思われない。似顔絵を見ればすぐに分かるはずだ。米倉の不審は強まったが、夫人は知らぬ存ぜぬの一点張りであった。
 そこへ、少年給仕が茶を持って現れた。これまた美形の若者であった。
「川井君! お客様はもうお帰りなのよッ」
 米倉に長居されたくないのだろう、夫人がヒステリックに少年給仕に言った。
「ヘェ、スンマセン。下げまさァ」
 少年は美形に似合わぬ乱暴な口調で、盆を引っ込めた。米倉がポカンと少年を見ていると、夫人が追い立てるように言った。
「さ、もうお話しすることはございませんわ。お帰りになって」

 追い出されるようにして橋本男爵邸を後にすると、広い庭の一隅に、先ほどの少年給仕が立っていた。
「クソッタレ、ババアめ。人がせっかく給仕してやったテェのに、何だい」
 言って、少年は地面に唾を吐いていた。これが、いやしくも男爵家の給仕であろうか。これではまるで路地裏の不良少年である。米倉は少年に声をかけた。
「君、君。たしか川井君といったね」
「ひゃっ」
 少年は飛び上がると、駆け出した。
「待ちたまえ!」
 米倉は川井少年を追いかけ、捕まえた。
「何だよう。おれは何もしてネエよう」
「では、なぜ逃げる」
「あんた刑事だろ。おれあ、警察キライなんだ」
 どうも、叩けばホコリの出そうな少年である。死んだ市原武雄と似ているのではないかと思い、米倉は川井少年から話を訊くことにした。
「君は、市原武雄という少年を知っているかね」
「そんな奴ぁ知らネエ」
「君と同じように、この家の給仕をしていた少年なのだが」
「ヘェ」
 川井少年がニタリと笑った。
「そんなら、おれと同種ってわけかい。ハハン……警察が来るわけだ」
「同種とは?」
「おっといけネエ」
 川井は慌てて口を塞いだ。
「どうして、君のような少年が、男爵家の給仕などしているのかね。市原武雄も、君と同じような少年だったのかね。警察が苦手な小悪党だったのかね」
「……」
「なんなら、君の身柄を警察にしょっぴいてもいいんだよ」
「分かったよ」
 川井少年は、観念したように言った。
「そうさ、まっとうなら、おれみてぇのが、男爵様の家で給仕なんか出来ネエ」
「どうやって潜り込んだのかね」
「へへへ……おれの本当の仕事は、給仕なんかじゃネエ。ここの男爵夫人の相手をすることさ」
「男爵夫人の相手……」
「有閑夫人に可愛がってもらって、カネを貰うのよう……」
 なんと。米倉は開いた口が塞がらなかった。
「なんて不倫な。姦通罪じゃないか」
「姦通罪は親告罪だろ。バレなきゃいいのよ」
 米倉は頭を抱えた。なるほど、夫人が武雄の死を知らぬ振りしていた訳だ。
「刑事さんよ。まさか旦那様に、この事を知らせたりはしネエよな?」
 少年が、オドオドした目で言った。
「バラさないでくれるなら、もう少し教えてやるぜ」
「分かった、秘密は守ろう。何を教えてくれるんだい?」
「おれは市原武雄なんて奴ぁ知らネエが、おれの前任なら、きっと売春してたんだろう。おれは口利き屋の紹介でここに勤めているんだが、その口利き屋なら、武雄とかいう奴のことを知っているかもしれないぜ」

 川井少年に教わった口利き屋は、裏通りに門を構える、怪しげな店であった。少年売春を斡旋するような店である。さもありなんと思いながら、米倉刑事は門をくぐった。
「ヘェ、武雄ですか」
 後ろ暗い主人は、オドオドと米倉と対応した。
「手癖の悪い餓鬼でしたから、どこやらでイザコザを起こしたんでしょうなぁ……うちも、あいつの素行には迷惑していたんです。ええ、ええ、武雄の奴が面倒を起こしたとしても、うちとは関係が……」
「言い訳はいい。質問に答えろ」
「ヘェ……」
「市原武雄はどういう少年だったのかね。親は? 身元は知っているかね」
「ヘェ、武雄の奴ぁ、貧民窟の餓鬼でさぁ。十三の時に、食い詰めた親に売られて来たんで」
「十三歳から、売春をしていたのか」
「無理矢理、子供にマダムの相手をさせたんじゃありませんよ。武雄だって、この仕事を楽しんでたはずですよ。ご婦人の相手をして金を貰うなんて、こんなうまい商売はないでしょう。貧民窟で飢え死にするよりも、マダムに可愛がってもらって贅沢させてもらったほうが、幸せじゃないですか……」
 優雅な有閑夫人の実態に、米倉は胸が悪くなるのを覚えた。
 十三歳から、上流階級に接していたから、礼儀作法を知っていたのだろうか……米倉は、紀代子嬢が語った武雄像を思い返した。
「武雄を恨んでいそうな人物や、彼が何か問題を抱えていたといったことは知らないか?」
「あいつは問題だらけでさぁ……ろくでもない連中とばかり付き合ってましたしね」
 米倉は、武雄の行きつけや彼の交友関係を手帳に書き込んだ。

 武雄は、怪しげなカフェー、活動、待合い茶屋等の常連であった。彼は金払いが良く、取り巻きを連れて淫らな豪遊をすることしばしばであったという。
「あいつは気前が良かったからねえ。でなきゃ、あんな野郎とは付き合わないよ」
 蓮っ葉な少女が、タバコをふかしながら言った。
「武雄は変態さぁ……ベルトで打ったり、四つん這いで犬猫の真似をさせたりするんだからね。クソババアめ、クソババアめ、って怒鳴りながらねエ。あいつ、お客の有閑マダムにされたのと同じことを、金で買った女に仕返しして、鬱憤晴らししてたんだよ」
 別の売春婦も口を挟んだ。
「だから金がある時だけ相手をするんだけど、あいつよっぽどマダムに虐められていたのか、金が入るとすぐに憂さ晴らしするものだから、いつも素寒貧でね。金が無い時は、アタシら見向きもしなかったね」
「金がある時はふんぞり返って厭な野郎だったけれど、金が無くなると笑っちまうくらい卑屈でね。半ベソかきながら仲間に入れてよぉって頭下げるんだよ。金が無きゃ相手にされないの、自分でも分かってたんだね」
 ケタケタと不良少女らが笑うのを、米倉は厭な気分で聞いていた。
 武雄は、売春婦を買うばかりでなく、不良少年同士の悪い付き合いもあったようだが、少年たちの間でも、彼の評判は良くなかった。
「金玉男だよ、あいつは。有閑マダムにぶらさがっている、男妾さあ。金玉男ってからかったら、怒って掴みかかってきたけどね。まあ、あんな優男は、一捻りしてやったが」
「それからはもう、ビクビクオドオド。あいつは俺らの子分だったよ。金で買った女にだけ強気で、強い男には米つきバッタ。あんな情けない奴は他にいないよ」
 武雄が死んだと聞いても、悲しむ者は一人もいないようであった。米倉は厭な気分を通り越して、腹が立ってきた。
 この連中は新聞なぞ読まず、たとえ新聞広告を目にしたとしても、警察と関わるのを嫌がり、尋ね人に反応しなかったのであろう。
 武雄の死に反応したのは財閥の紀代子嬢だけだったのかと思うと、米倉は令嬢の清純、優しさに胸が少し熱くなった。
 それにしても、知れば知るほど、殺された武雄少年は、ろくでなしであったようだ。
「でも、最近はちょっと生意気になってきてたなぁ」
「どこかの金持ちの令嬢をたらしこんで、いい気になってたんだよ。おれは今に令嬢と結婚してこんな掃き溜めからは足を洗ってやるんだとか、おれは清貧の苦学生で少年紳士なんだとか」
 その令嬢とは、紀代子嬢のことに違いあるまい。裏通りの男妾少年は、雲上人の財閥令嬢との交際に、有頂天になっていたようだ。あるいは、紀代子嬢とどうにか結婚に漕ぎ着け、彼女の地位と財産を狙っていたのかもしれない。
 不良少年らの話を聞いているうちに、米倉は、一人の若者が蒼白になっていることに気づいた。その若者は、仲間の輪の中からじわじわ後じさり、そっと出ていこうとしていた。
「君」
 米倉が呼びかけると、若者は一目散に走り出した。
「待て!」
 米倉は追いかけた。若者は、脱兎のごとく駆けていく。裏通りの地理を熟知しているらしく、恐ろしく逃げ足が早い。米倉は少年を取り逃がしそうになった。
「待てーッ止まれ! 止まらんと、撃つぞ!」
 米倉が威嚇射撃をすると、さすがに若者は足を止めた。米倉は少年を捕まえた。
「なぜ逃げる? 武雄殺しについて、何を知っている?」
「知らネエ! 何も、何も知らない!」
 喚く若者の顔は真っ青で、恐怖に引きつっていた。米倉は少年を警察に引きずっていった。
 警察の尋問に対し、若者ははじめ、知らない知らないと繰り返していた。しかし、武雄の死骸の解剖写真を突きつけられると、震え上がって泣き出した。
「し……死ぬなんて思わなかったんだよウ!」
 若者はついに、武雄殺しを白状した。
「あいつ生意気になって……ちょっと懲らしめてやろうと思って、夜に仕舞た屋に呼び出して、脅してやったんだ」
「仕舞た屋? 公園じゃないのか」
 武雄が死んでいたのは、表通りの公園である。だが若者は、裏通りの仕舞た屋で、武雄を刺したのだと自供した。
「今までなら、ちょっと凄めばすぐに土下座していたのに、あの時はどういうわけか頑固で……」
 若者が武雄に、おまえなど令嬢と結婚できるものか、嘘八百で令嬢を丸め込んでいるらしいが、化けの皮などすぐに剥がれるのだと笑うと、臆病な卑屈者であったはずの武雄は、怒り狂って飛びかかってきたのだという。殺すような勢いだったそうだ。驚いた若者が刃物を出しても怯まなかったらしい。
「なんであいつがあんなに怒ったのか、分からないよ……」
 若者は頭を抱えた。格闘の拍子に、武雄の腹に匕首が刺さったのだという。
「でも、刺した後も、武雄はまだ生きてた」
 その自供は、医者の検死と一致する。
「あのままじっとして、人を呼ぶなりしてりゃ、助かったはずだ。だから俺は、思い知ったかと唾を吐いて、仕舞た屋を出たんだ。翌日になって、武雄の奴が仕舞た屋にいなくて、血の跡が点々とついていたから、医者の所にでも這っていったのかと思ったけれど、まさか表通りの公園なんかで死んでるなんて……」
 米倉は先輩刑事と顔を見合わせた。先輩は肩をすくめて言った。
「財閥令嬢などが出てきて、どうなることかと思ったけれど、結局は不良少年同士の喧嘩か。つまらない事件だったな」

 新米刑事米倉がはじめて担当した事件は、彼の手柄で解決となり、捜査本部は解散となった。ベテランの刑事には、武雄少年の件は、ありふれた下らない事件であり、犯人が捕まればもう後はどうでもいいことであった。ベテラン刑事たちは、次の事件に取り組み始めていた。
 しかし米倉は、はじめての事件のためか、先輩刑事らのように、頭を切り替えることが出来ないでいた。米倉には、瀕死の武雄がなぜ、医者の所ではなく、表通りの公園まで這っていったのかという事が、引っかかっていた。
 路地裏の不良少年が、命をかけてまで、なぜそんな無為なことをしたのか。まして、武雄は卑屈で臆病な男だったというではないか。そんな人間が、なぜ、死を賭してまで、公園になぞ。公園に何があるというのか。広場と木立があるだけだ。
 米倉には、どうにも、武雄少年の最期の心理、行動が気にかかるのだった。
「そんなことはどうでもいいじゃないか。さあ、仕事仕事」
 上司は米倉を小突いた。

「僕は何をやっているのか……」
 米倉は自嘲しながら、裏通りを歩いていた。
 もう同僚たちは次なる事件に奔走しているというのに、米倉はまだ市原武雄の件に拘り、武雄少年の根城であった裏通りを散策しているのである。
「武雄君よ。君は卑屈な臆病者だったのだろう。それがなぜ、刃物を持った相手に突っかかっていったのだい。どうして医者を呼ばず、公園なんかに行ったのだい」
 米倉刑事は、質屋の騒ぎに出くわした。
「盗品とは知らなかったンです!」
 わめく質屋の主人に、身なりの良い中年婦人が詰め寄っていた。
「嘘おっしゃい! この泥棒ッ!」
 米倉は目を丸くした。ヒステリーを起こしている婦人は、誰あろうあの好色有閑マダム、橋本男爵夫人だったのである。
「やあ、どうなすったんです」
 米倉が声をかけると、橋本男爵夫人はたちまち色を失った。
「あ、あらまあ刑事さん。オホホホホ……」
「盗品とか泥棒とか騒いでいたようですが」
「いえね、うちで無くなった品が、こんな店で売られていたものですから。ホホホ……」
「盗まれたというんですか。給仕の川井君がたくったのではないですか?」
「それはありませんわ。川井を雇う前に、無くなったのですもの」
「川井君の前……では、武雄君ですか」
「……」
 橋本男爵夫人はソワソワし始めた。殺された少年とは、もう縁を切りたいのだろう。
「あたくし、用があるので、失礼しますわね」
 橋本男爵夫人は、逃げるようにいなくなった。米倉は肩をすくめた。
「ご主人。ちょっと伺いますが」
 米倉は、警察手帳を見せて、質屋の主に尋ねた。
「先ほど夫人が騒いでいた品は、少年が売りに来たのかね?」
 武雄が、橋本男爵夫人から盗んだものを、この質屋に売ったのだろうか。すると主人は首を振った。
「いいえ。落ちていたのを、拾ったのです」
「落ちていた?」
 米倉は眉を寄せた。こんな高価な品を、おいそれと落とすだろうか。しかも、見れば、主人が拾ったという品は、どれも体につけるような物ばかりだった。
「主人。落ちているものは、警察に届けなきゃイカンよ」
「ヘェ、すみません。捨ててあるとばかり思ったもので」
 図々しく言ってのける主人に、米倉は呆れた。
「主人。これをどこで拾った?」
「ヘェ。仕舞た屋に面した裏通りです」
「なんだって?」
 武雄が刺された付近ではないか。
「いつ拾ったんだ?」
「×日の朝でしたかね。いや、夜といったほうがいいかな? たまたま朝早く起き出してみたら、上等の時計だの指輪だのが落ちてんですから……早起きは三文の得って、本当ですねえ」
 ×日の早朝であれば、武雄が刺されてまもなくだ。米倉はその状況を思い浮かべ、目を見張った。
 米倉の心中に火花が散り、謎が氷解していった。
 武雄は、橋本男爵家から、小品をくすね、それを身につけていた。だが刺された後、彼はせっかく盗んだ品を、落としていった。そして、公園に這っていった。
 なぜ?
 盗品を身につけて死んでいたのでは、まずかったのだ。裏通りで死んでいたのでは、まずかったのだ。
 米倉の脳裏に、市原武雄という少年の境遇が、思い返された。
 貧民窟に生まれ、貧困のため親に売られ、有閑マダムのオモチャとなって生きてきた少年。路地裏の仲間からも馬鹿にされ、周囲の顔色を窺い金をばらまく、卑屈な不良少年。
 そんな惨めな少年の目に、財閥令嬢はどううつったのか。世の醜さを知らぬ、清純可憐な財閥令嬢を、武雄はどう思ったのか。
 純真で世間知らずの紀代子嬢は、武雄少年の真の姿など分からず、ただ彼の表面の物腰と美貌に、好意を持った。名門中学の苦学生だという彼の嘘を信じ、愛情と尊敬を抱いた。
 愛情と尊敬。それは、どん底の不良少年の人生には、かつて無かったものではないのか。
 武雄は、嘘に嘘を重ねた。路地裏の卑屈な不良少年の素顔を、礼儀正しい実直純情な好青年の仮面で覆い隠した。愛情と尊敬を得るための、完璧な美少年の仮面。
 その美しい仮面を侮辱されることは、臆病を突き破るほど、何よりも何よりも、許せないことだったのだろう。仮面を踏みつけられることは、愛情と尊敬を踏みつけられるのと同じだから。だから、今までのように尻尾をまかず、刃物にも怯まなかった。
 腹を刺されてうずくまり、武雄はこう思ったのだろう。
 自分は、名門中学の優等生で、品行方正、実直な好青年なのだ。そんな若者が、盗品を身につけて、路地裏の仕舞た屋で死んでいるわけにはいかない。そんな死体が発見されて、おれの正体を紀代子に知られるわけにはいかないのだ。
 そして武雄は、盗品を体から外した。自分の身元が知られるようなものは、一切合切、捨てていった。怪我をおして路地裏を這い出し、表通りまで出て、公園で力尽きた。あるいは、日の当たる明るい公園こそが、「美少年 市原武雄」に相応しい死に場所だと思ったのかもしれない。

 待ち合わせの時間に少し遅れて、息を切らして紀代子嬢が現れた。
「遅れてしまってごめんなさい。父を振り切るのに手間取ってしまって」
 謝る紀代子に、米倉は椅子をすすめた。
「武雄さんがどうして殺されたのか、犯人は誰だったのか、事件がすっかり分かったのだそうですね? 教えてください!」
 米倉から、事件の真相を解明したという連絡を受けて、紀代子は飛んできたのだった。
「まあ、落ち着いてください、紀代子さん」
「落ち着いていられないわっ。米倉さん、早く教えてください! どうして、どうして武雄さんは、殺されなきゃならなかったの!」
「……」
 興奮する紀代子を、米倉はじっと見つめた。
「紀代子さん。武雄君を愛していましたか?」
 米倉の突飛な質問に、紀代子は一瞬目を丸くした。
「愛していましたわ。当然でしょう。あんなに素晴らしい美少年は、他にいません」
 紀代子は言い切った。武雄の仮面を信じ切っている瞳だった。
「武雄君も、あなたを愛していましたよ。悲しいくらいにね」
「米倉さん?」
「……事件の真相をお話ししましょう。×日早朝、武雄君は、公園を散策していました。人気のない未明の公園で、柄の悪い男が、新聞配達の少女に絡んでいました。武雄君はそれを見咎め、男と格闘になりました。武雄君は少女を逃がし、悪漢の凶刃に倒れました」
「……」
 紀代子の瞳が揺らぎ、涙が零れた。
「武雄さん……」
「彼らしい最期ですか?」
 紀代子は頷いた。米倉の言葉を疑う様子はなかった。米倉は小さく息をついた。
「犯人は捕まったのですね?」
 涙を拭い、紀代子は米倉に尋ねた。
「はい。少女の証言と、地道な捜査によって、逮捕しました」
 紀代子が、赤い下唇を噛んだ。怒りと憎しみを押さえている表情だ。
「……きっと、きっと、犯人に罪の償いをさせてくださいね」
「もちろんです」
「……」
 紀代子はまた涙を浮かべそうになったが、気丈にもこらえた。紀代子は米倉と正面から対峙した。
「ありがとうございます」
 紀代子は米倉に頭を下げた。米倉は、紀代子の清楚な後ろ姿を見送った。
 紀代子嬢のなかで、市原武雄という人間は、永遠に完全な美少年のままであり続けるのだろう。

 米倉は晴天を見上げた。やっと、市原武雄殺人事件が、終わったように思った。


 終わり

ホームへ  作品リストへ 怪奇小説へ

 

inserted by FC2 system