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怪奇長編小説「ペイン」の番外編。
先に「ペイン」をご覧ください。
「ペイン」ラストで戒弥が久弥に勝てなかったらこうなっていた、という
パラレル物語です。


スイートペイン




 暗いよウ……。
 ガクガク。ガクガク。震えが止まらない。
 暗いのは、怖い。
 ここはどこ?
 僕はなんだか独りぼっちで、よく分からない真っ暗な闇の中にいるみたいだった。
 どうしてこんな恐ろしい暗黒に、僕はいるのだろう。夜はいつも、明かりを点けていたのに。いや、そもそも今は、夜なのだろうか。
 なんだろう、ここ。まるで……まるで……あの怖い古井戸の底のよう。
「ひい……」
 喉の奥から、恐怖の呻きが漏れる。嫌だ、暗いのは嫌だ。古井戸は嫌だ。
 明かりはどこ?
 必死になって、闇の中で腕を伸ばす。早く、早く明かりを点けないと。ここがどこか、僕はなんでこんな所にいるのか、そんなことどうでもいい。とにかく、光だ!
 指先が、何か固いものに触れた。
 なんだろう? なんだろう? 触ってみると、それはざらざらとして広く、どうやら土壁のようだ。土壁? なんだこれ? いや、それより明かりだ。
「?」
 壁沿いに辿っていくと、今度は木の柱のような手触りがした。なんだ? 柱は細く、隣にまた同じような柱があった。その次もまた、柱が……。
 なんだこれ? 混乱。これは、格子?
 僕は、格子のついた真っ暗な部屋に、いる。
 ……。
 ぞわぞわと、毛虫が這い上るような悪寒。
 座敷牢。
 ここは、伊那家の地下の、座敷牢だ。
 兄さんが、あの悪魔が、十五年監禁されていた、あの暗い……
「ひゃああああ!!」
 呻きではなく、悲鳴が出た。
「嫌だ、なんで? 出してくれ、誰か、助けてくれ!」
 僕は格子にしがみついて叫んだ。格子は、びくともしない。閉じこめられている!?
「ひい、どうなってるんだよ! 開けて! 出して! 助けて!」
 狂ったように体当たりし、叫ぶ。あまりに滅茶苦茶にぶつかったので、ドロリとしたものが流れた。けれど、多少の怪我など、構っていられない。出ないと! ここから出ないと!
 これだけ暴れて叫んでいるのに、格子は開かないし、誰も来ない。どうして? 正平は? 佐和は? 透緒子は???
 なんだ? なんだろう? 頭痛。何か、忘れているような。
 正平。佐和。透緒子。
 あ。
 点滅。
 闇。花火。血。
 あ。あ。
 思い出す。
 死んだ。殺されたんだ、皆。
 あの祭の狂った夜に、皆殺しにされたのだ。封印を解かれた悪魔が、一夜にして全部殺してしまったのだ。
 ああああああ。
 恐怖が、走る。
 家族を殺された悲しみ、怒りよりも。
 恐怖が。
 圧倒的な恐怖が。
 なんてこと。
 皆、殺されて、僕が、僕だけが、生き残った。
 どうしよう。もう、誰もいない。僕だけ。僕一人、闇の中、取り残されてしまった。もう、誰も助けてくれない。誰もいない。
 家族の死を悲しむどころじゃない。悲しむなんて、そんな他人事の平和な感情がわく余地など、ない。僕もすぐにも、家族の後を追うことになるのかもしれないのだ。
 孤独。戦慄。恐怖。
 ……ギィ。
 闇に響いたかすかな物音に、僕は動きを止めた。
「……誰?」
 愚問。正平も佐和も透緒子も死んだ。残っているのは……。
 ギィ。ギィ。ギイイ……。
 降りてくる。あの男が、降りてくる。



 生暖かい血飛沫が、俺の頬をかすめた。
「クゥゥ……」
 鉈でざっくりと胴を割られた犬が、最期の断末魔を漏らす。俺はじっと、犬が絶命するのを眺めた。
 やっと、犬を殺せた。けれど、望みを果たした満足よりも、積年の恨みのほうが大きい。
「たったこれだけのことのために……」
 俺は、犬の死骸を踏んだ。
 犬が欲しいと言っただけで、俺は十五年も、地下の何もない座敷牢なんぞに閉じこめられるはめになった。たかが犬一匹殺すくらいで、なんでそんな目に遭わなきゃならないんだ。畜生、二度と帰らぬ十代を、青春を、あんな暗い地下室で過ごすなんて。
「……埋め合わせはしてもらうぞ」
 犬の死骸を踏みにじり、俺は呟いた。
 佐和や正平、透緒子を殺したくらいじゃ、おさまらない。だいたいあいつらは、たいして苦しんでいない。殺される一瞬、ほんの数分、ちょっと苦しがっただけだ。俺は十五年も苦しんだんだ。
 ただ、犬が欲しいと言っただけなのに。それがそんなに、悪いことなのか? しかも、子供のおねだりだぞ。可愛いもんじゃないか。それまで皆、俺の言うことは何でもきいてくれたのに、どうして犬コロ一匹くらいで、あんな目くじら立てるんだ。本当に、理不尽だ。
 おさまるもんか。皆、俺を裏切って、いつまでも苦しませて、あっさりと楽に死にやがって。許さない、絶対。
「ああああ……」
 細く、悲鳴が聞こえてきた。ふん、戒弥め、やっと目を覚ましたか。
 俺は犬の死体を一瞥し、座敷牢に向かった。犬ではもう、遊んだ。今度は戒弥で遊ぼう。そのためにあいつを、生かしておいたんだ。十五年分、遊ばせてもらおう。
 座敷牢に向かうために、裏庭から正面に回ると、黒塚村の村人と会った。
「あ、こんにちは久弥さん」
 村人が気さくに挨拶する。俺は怯えた表情を作り、声は出さずに会釈だけ返した。
「大変でしたね、この度は……」
 田舎者らしい浅ましい好奇心を覗かせ、挨拶めかして探りを入れてくる。今回、そして前回の伊那家惨殺事件は、すべて戒弥の仕業ということになっている。十五年前の事件は時効になっているものの、使用人親子と養子殺害の件について、暗闇にすっかり怯えて茫然自失となった戒弥は、心神耗弱で無罪になった。別に死刑になっても良かったのにと思ったが、今は無罪になって良かったと思う。兄弟愛からじゃない。死刑で簡単に死んだら、つまらない。
 俺は無罪になった戒弥を引き取り、俺がかつて閉じこめられていた座敷牢に、ぶち込んでやった。
 俺は積年の無実がようやく晴れて、今や伊那家当主におさまっている。村人らは、厳窟王よろしく囚人から福家当主に復活した俺に、興味津々のようだ。
 だが俺は、本来の地位に返り咲いたことを得意がらず、いかにも長年の逆境に打ちひしがれた気弱な当主を演じていた。家族が死ねば、人は悲しむものらしいからな。俺は別に、誰が死んでも悲しくないが。
 村人の詮索を適当にあしらい、俺は伏し目がちに、逃げるように家の中に入った。中に入った途端、気弱な当主の仮面を脱ぎ捨てる。
 伊那の屋敷。江戸末期の安政に建てられた、平屋の広大な日本家屋。母屋、離れに蔵三つ。さらに東京を中心に主要地にいくつか、土地がある。旧家に相応しく、値打ちある骨董品もごろごろしている。貯金も、利子だけで食っていけるくらいある。
「ククク」
 自然と、笑みがこぼれる。これらの莫大な財産がすべて、俺のものなのだ。やっと、取り返した。本来、俺が継ぐはずだった家、土地、財産。
 俺はようやく、伊那家当主に返り咲いた。もう、うるさい親もいない。邪魔する家族はない。自由だ。遊び放題だ。
「戒弥ぁ、遊ぼうぜ……」
 俺は、ゆっくり、地下への階段を降りていった。



 懐中電灯の明かり。その弱い光でさえ、闇に怯える僕の目には、太陽のように眩しく感じられた。
 明かりだ……。たったそれだけのことで、安堵が胸に広がる。けれど、安心している場合ではないのだ。懐中電灯を持つ手を辿ると、そこには悪魔の姿がある。
 伊那久弥。
 僕の双子の兄。肉親から使用人、養子の美少女に至るまで、伊那家の者を皆殺しにした、悪魔。利己と欲望のままに、何人でも手にかけ、一片の罪悪感も持たぬ、怪物。
 そんな恐ろしい男が、格子を挟んで僕の前にいる。白皙の美貌にあどけない微笑を浮かべて。
 ああ。ああ。あああああ。僕はすくみ、震え上がった。僕と兄を隔てる格子が、盾のように思えた。僕を閉じこめる格子よ、僕を兄から守ってくれ。
 家族を殺された怒り悲しみもなく、ただただ恐怖に圧倒され、僕はすくんだ。
「ああ、駄目じゃないか、戒弥」
 兄の顔から、微笑が消えた。彼は僕を照らした。眩しい。
「血が垂れてる。顔を傷つけるなよ。俺は、おまえの顔だけは気に入ってるんだ。他は大嫌いだけどな」
 暗闇で暴れて怪我をした時に、顔も傷つけたらしい。僕は頬に手を当てた。血の感触があった。
「こっちに来いよ。顔の傷だけ、手当してやる」
 兄が手招きする。僕は首を振って、向かいの土壁に張り付いた。兄の眉間が曇った。
「この俺が有り難くも手当してやるって言ってるのに、言うこときけないのか。この愚図のウスノロ野郎が」
 低く言う。怖い。僕はよろよろ、格子に近づいた。
「はじめからそうしてればいいんだよ、この馬鹿」
 吐き捨てるように言って、長い指で僕の頬に触れた。殺人鬼に触られている……刃物で触れられているような気がして、僕は固まった。でも兄の手は、意外に温かかった。恐怖の中、子供の頃、彼と握手したことを思い出した。温かい、兄の手。
「かすり傷だな、たいしたことない」
 傷をみて、兄は笑みを浮かべた。優しい笑み。けれどこの男に限って、僕の心配をしてくれているということだけは、絶対に無い。彼はただ、双子である僕の顔を通して、己の美貌を愛しているに過ぎない。エゴイストでナルシスト。なのにどうしてこの人は、こんなに優しい笑顔が出来るのだろう。こんなに温かい手を持っているのだろう。優しさや愛情なんか、一欠片も無いくせに。
「さて」
 手当が終わり、兄は僕から離れた。僕はなぜか、寂しい気がした。
 兄は、懐から鍵を取り出すと、格子を開いた。
 悪魔が盾を乗り越えて、入ってくる! 寂しさは吹き飛び、僕は再び戦慄した。
「嫌だ、こっちに来ないで!」
 僕は壁に張り付いた。兄は、今度は嗜虐的な笑みを浮かべて、牢に入ってきた。
「どうしたのさ、戒弥? 何を怖がっているのかな?」
 ニヤニヤ笑いながら、近づいてくる。あ。僕を虐める時の顔だ。やっぱりこの男は、優しくなんかない。変わってない。変わらない。生まれつきの苛虐者!
 僕は必死で、逃げ口を探した。兄が近づいてくる。捕まったら終わりだ。逃げないと。
「あっ」
 窮鼠猫を噛む。僕は兄を突き飛ばし、開いた格子に向かって、走った。
「この野郎!」
 怒声と共に、後頭部に強い衝撃を受けた。眩む視界に、角材が見えた。こんなものを投げつけるなんて。痛みに、僕はしゃがみこんだ。血が落ちる。頭蓋骨が割れたんじゃないだろうか。ぐらぐらする。
「犬のくせに飼い主に逆らいやがって……」
 兄が近づいてくるのが見えたが、立ち上がることも出来ない。
 兄は側まで来ると、物も言わず、いきなり僕を蹴り上げた。
「グッ」
 悲鳴も出ない。息が止まる。見れば、兄は鉄下駄をはいていた。ひどい。それで思い切り蹴るなんて。さらに兄は、鉄下駄で僕を踏みにじった。一人前の男の全体重をかけた鉄の歯が体に食い込み、骨が軋む。
「痛い、痛い」
 必死に体をよじるが、重い鉄下駄はますます食い込んでくる。まったく容赦がない。
「ひどい、痛い、やめて」
「おまえは頭の悪い畜生だから、ご主人様に逆らったらどうなるか、体に教えておかないとな」
「分かった、分かったからやめて」
「どうかな? おまえ本当に馬鹿だから、自分が犬畜生だという自覚が、まだ足りないんじゃないのかな?」
 笑いながら、兄が覗き込む。
「一人前に人間のつもりでいるなよ。形は人間でも、おまえの本質は犬なんだ。飼い主の足を嘗めて残飯を貰って尻尾を振る、犬だ。そういうふうに、生まれついている」
 軽蔑と優越でもって、僕を見下ろす。兄にとって、僕は人間ですらないというのか。
「認めろよ、僕は犬ですって。久弥様のお情けでどうにか生きている、惨めで愚図な雑巾犬ですって。そう言えば、退いてやるよ」
「そ、そんな……」
 いくらなんでも、そんな屈辱的なことは言えない。僕は口ごもった。
「言えないか? そうか、意地があるのか」
 兄は、ニッコリ微笑んだ。
「言わないなら、俺はいつまでも退かないけどな。もし言わないまま死んで、意地を通したなら、おまえを人間だと認めてやるよ」
 微笑んだまま言う。僕は痛みの中にも、唖然と兄を見上げた。この人は、本当に、僕が降参するか死ぬまで、絶対に退かないだろう。鉄下駄で踏みつけたまま、笑っているだろう。そういう男だ。
 悪魔。
「に、兄さん……」
 僕は、絶望に喘ぎながら、兄を見上げた。兄は微笑んでいる。そして、鉄下駄で踏みつけたまま、動かない。
「兄さん……」
 息が苦しくなってきた。きっと僕の顔は蒼白だろう。脂汗が流れる。痛いを通り越して、痺れてきた。それでも兄はただ、笑っている。
「兄さん、お願い……本当に、死んじゃう……」
 すると兄は、なんとゆっくりと、片足をあげた。今までは二本の足で分散されていた体重が、一本に集束され、重みが二倍になる。
「ぎああああ」
 切り込むような痛みに、悲鳴が出る。兄は目を細めた。僕の苦痛を楽しんでいる。
 死ぬ、本当に死ぬ。あまりの痛みに呼吸も出来ず、僕は本気で死を覚悟した。もういい、退いてもらおう、そのためなら、どんな屈辱だって……。
 けれど、屈服の言葉を言おうにも、声も出ない。僕は酸欠の金魚のように、口をパクパクとさせた。ああ、兄に踏み殺されてしまう。酸欠に陥りながら、僕は目だけで兄に訴えた。涙で視界が曇る。兄は涼しい顔をしている。ああ、この男に哀願なんて、きかない。
「ふあああ」
 兄が、暢気にあくびをした。
「飽きちゃった。もういいや」
 遊びに飽きた子供のように言って、彼はようやく、僕の胸から退いた。激痛が鈍痛になり、ふっと胸が軽くなった。僕は咳き込みながら、空気を貪った。助かった……。
「つまんないなぁ」
 息を整える僕を見下ろしながら、兄は口を尖らせた。
「この軟弱野郎が、意外に頑張りやがって……おまえ、犬になるのはどうしても嫌か」
 首を傾げて言う。僕は苦痛の余韻に喘ぎながら、かすかに自尊心の満足を覚えた。兄に屈服せず、彼を根負けさせたのだ。僕は犬じゃない。もっとも、最後はもう降参してしまおうとしたけれど、ただ声が出なかっただけだけれど、それでも僕は、己の自尊心を守ったように思った。良かった、屈服なんかしなくて良かった。
「そうか、おまえは犬じゃなくて、人間だったのか」
 兄が意外そうに言う。僕は頷いた。兄は半眼になった。
「ふうん……。面白くないな。分かった、じゃあもう、おまえとは遊ばないよ」
 兄は突き放すように言った。僕は驚いて顔をあげた。
「え……?」
「俺が動物好きなのは知ってるだろ? 俺は犬が欲しかったんだ。人間なんか要らないんだ」
 つまらなさそうに言って、兄は背を向けた。そのまま、出ていこうとする。懐中電灯の明かりが、遠くなる。
「待って、兄さん……どこに行くの?」
 こんな暗闇に、僕を残して行くつもりなのか。兄は答えず、振り向きもしない。兄の冷たい背中。子供の頃を思い出す。僕を虐めては、飽きたらフイッと先に行ってしまう兄。僕は泣きながら、兄の背中を追いかけた。まって兄さん、ぼくをおいていかないで、おねがいだからふりむいて――
 少年時代の郷愁と現在が、交錯する。幼い日、一番辛かったのは、殴られ罵倒された時じゃなく……飽きられて無視された時こそが、本当に……
「待って兄さん……犬で……犬でいいから……だから振り向いて……」
 涙と一緒に、屈服の言葉が出た。



 戒弥が何を一番嫌がるのか、俺はよく知っている。こいつを降参させるのは簡単だ。どれだけ意地を張ったって、所詮犬なんだから。捨てられるのが、一番嫌なんだ。
「犬でいいから……だから振り向いて……」
 尾を引くような哀願の声。ほらね。まったく、九歳の時から、成長してないよ。俺に背を向けられると、泣き出す。二十六にもなってさ。
 俺がゆっくり振り返ると、戒弥は安心したような顔になった。なんで、いたぶられると分かっていて、安心するんだろう。虐められるのが好きなんだろうな、きっと。そして俺は、虐めるのが大好きだ。
 英才の俺と愚鈍な戒弥、どうしてこんな二人が双子の兄弟なのか。一見謎だが、実は当然のような気がする。割れた破片を繋ぐように、磁石のN極とS極が引き合うように、正反対だから、ぴったりと噛み合う。俺たちは元々一人の人間だったのが、生まれる拍子に二人に別れただけなんじゃないかというくらい、嗜好の相性が合っている。
 伊那戒弥。俺の双子の弟。俺に虐められるためだけに生まれた、俺の半身。
「おまえ、人間なんじゃなかったのか?」
 俺はわざとらしく訊ねた。戒弥は弱々しく、首を振った。
「犬でいいのか? せっかく、人間と認めてやったのに、犬に降格したいんだな?」
「……」
「あ、やっぱり犬は嫌か。そりゃそうか。じゃあ、バイバイ――」
「犬でいいです……」
「何か言ったか?」
「……」
「ケッ、はっきりしろよ、ウジ虫野郎。ウジ虫は暇が有り余ってるのかもしれんが、俺は忙しいんだ。三秒以内にはっきりさせなかったら、もう金輪際相手にしない。一、二――」
「犬でいいです!」
 叫び、戒弥はしがみついてきた。俺はあやうく、倒れそうになった。
「ふうん、そうかい。犬でいいんだな?」
「はい……」
 戒弥は項垂れた。馬鹿な奴。俺は崩れかけた体勢を戻した。俺と戒弥は双子、体格もそんなに変わらない。本気になって戦えば、俺を倒してここから出ることも出来るかもしれないのに、戒弥は刃向かわない。こいつは従うように出来ていて、戦うようには出来ていないのだろう。
「よし。じゃあ、犬らしく、四つん這いになれ」
 戒弥は少し不満そうな目で俺を見上げたが、一睨みしたら、すごすごと言われた通りにした。
「アハハハ。いい格好だな。旧家の御曹司が、薄暗い地下牢で命令されて四つん這いか」
 ひとしきり笑い、俺は戒弥の帯を解いた。着物がはだけ、戒弥がキョトンとした顔で俺を見る。俺は帯を両手に握って左右に引っ張りながら、言った。
「犬なんだから、着物は要らんだろう」
 戒弥は困った顔をしたが、しおしお着物を脱いだ。情けない褌一つの姿になる。それを見て、俺はまた笑った。戒弥は羞恥に俯いた。裸になると、さっき俺が踏んだり蹴ったりした場所が、赤黒い痣になっているのが見えた。肌が白いから、痣がよく目立つ。痛いのかな? まあ顔さえ傷ついていなければ、他は滅茶苦茶にしてしまっても構わない。むしろ、滅茶苦茶にしたい。
「犬ゾリだ!」
 俺は、戒弥の背に飛び乗った。のしかかられ、戒弥が少し苦しそうに喘ぐ。俺はその口に、さっき取った帯を噛ませた。即席の手綱だ。
「ほらほら、進め!」
 拍車よろしく、俺は戒弥の腹を鉄下駄で蹴った。痣のある所だ。
「うええ」
 帯の猿ぐつわの奥で、戒弥が呻き声をあげた。痛そうだ。
「ほら、犬! 犬! 進めよ!」
 俺は、容赦なく、傷を狙って蹴り上げた。
「ひい、ふう」
 猿ぐつわでくぐもった悲鳴をあげながら、戒弥は家畜のようにヨロヨロ進んだ。俺は手綱を思い切り右に引っ張った。戒弥の首が右に曲がり、進路も曲がる。本当に、手綱だ。帯が、涎と血で滲んでいく。
 右に左に戒弥を操りながら、速度が落ちると鉄下駄で打った。戒弥の白い体が痣だらけになっていく。涙と血が落ちる。
 痛いのかな? ねえ、痛いの? 俺は心中で、戒弥に訊ねた。戒弥の綺麗な顔は、苦痛に歪んでいる。痛そう。
 痛みってどんなだろう。俺には分からない。分かるつもりもない。
 悲しいって何? 痛いって何? どうして人は、そんなつまらないものを大切にするの? 俺は、そんなもの持たない。最初から無い。痛み悲しみは、全て戒弥が、俺の半身が、受け持ってくれる。だから俺は、痛みを知る必要がない。



 じくじくとした全身の痛みが、意識を呼び戻した。
「ううう……」
 鈍痛に、呻きが出る。固い床の感触。それでいて、頬だけが柔らかいものの上に載っている。座布団かなにかが、あてがわれているようだ。
 全身の肌に直に伝わる、床の冷たさ、堅さ。兄は僕を気絶するまで殴りつけ、裸のまま放り出していったのか。今更だけれど、ひどいことをする。怒っていいはずなのに、あてがわれた枕に、涙が出そうになる。
 馬鹿。あいつに人並みの優しさなんか、あるはずないじゃないか。この枕はただ、自分と同じ顔を傷つけないための、自己愛の投影に過ぎない。彼は自分しか愛してないんだ。自分にだけ、優しいんだ。
 どうして僕は、あんな悪魔を呼び止めて、犬でいいなんて叫んでしまったのか。一人になって冷静になると、自分の行いが、不思議でたまらなかった。殴られた痛みが、後悔を呼ぶ。僕は馬鹿じゃないのか。
 暗闇の恐怖と兄への恐怖で混乱し、訳が分からなくなっていたんだろう。
 ああ。そう、今もまた、闇だ。暗いというより、黒い。
「あああ……」
 身動きすると体のあちこちが痛んだが、僕はこらえて丸くなった。頭を抱える。
 暗い、黒い、独りぼっちだ。寒いのは、裸のせいばかりではないような気がした。僕は無意識に、兄が唯一置いていってくれた枕を抱きしめて震えていた。
 怖い。
 誰か……誰か……誰か……。お母さん、お父さん、義彦じいさん、正平、佐和、透緒子……。今はもういない家族に、助けを求める。家族のことを思い、切なくなった。皆、死んでしまった。殺されてしまった。可哀想な人々。
 とくに透緒子。彼女は伊那家とは元々関係なかったのに、僕がこの狂った家に引き込んで、死なせてしまった。彼女は僕を疎んじていたけれど、僕はあの子が好きだった。一度だけ、手を握った。小さな、冷たい、華奢な指。女の子は皆、あんなガラス細工みたいな繊細な手をしているのか、それとも彼女だけがそうなのか。
「兄さん……兄さん……」
 僕は、自分の呟きに我に返り、闇の中で驚いた。どうして、透緒子のことを考えていたのに、その大切な美少女を殺した兄のことなど、繰り返し呟いていたのか。
 僕は、暗闇におかしくなりかかっている。暗闇の恐怖に加え、発狂の恐怖が襲った。
「いや……いやだ、出して」
 手探りで格子を掴むも、無論びくともしない。
 闇。
「ううう……」
 震える。怖い。せめて闇を見たくなくて、目を閉じた。
 どのくらい、時間が経っただろうか。そっと目を開けてみると、やはり暗いままだった。静寂。
「兄さん……」
 闇の中、僕は兄に呼びかけた。返事はない。兄は一体、いつまで僕を閉じこめておくつもりなのだろう。
 一生……?
 すっと、寒気がした。まさか。でも、あの兄なら、平気でそういうこともするだろう。
 グウ。静けさのなか、腹の虫が響いた。僕は急に、空腹と乾きを自覚した。そういえば、ここで目が覚めてから、何も口にしていないのではないだろうか。
「……」
 空腹そのものよりも、この状況のほうに、僕は戦慄した。本当に、十七年前の古井戸と、そっくり同じだ。閉じこめられて、お腹が空いて、暗くて……。
「くうう……」
 嗚咽が、漏れた。怖さ、不安、焦燥。九歳の子供に戻ったみたいだ。僕は丸くなった。
 闇の中で震えてうずくまっていると、古井戸の底を思い出す。
 暗くて深い、井戸の底。お腹が空いて、喉が渇いて、真っ暗で、独りぼっちで……。
 孤独と飢えに震えながら、僕はずっと、兄を待っていた。
 兄さんが助けてくれる。そう信じて。
 でも、本当は分かっていた。兄は助けになんか、来ない。
 けれど、僕はひたすら、兄さんを待っていた。暗い井戸の底で、僕が出来るのは、兄を待つことだけだった。来てくれない、助けてくれないのが分かっていても、僕は兄を待ち続けた。
「兄さん……兄さん……」
 呟く。僕は、九歳の少年に返って、ひたすら兄を待ち続けた。



 東京に来たのは、何年ぶりだろう。俺が知っている東京は、焦土が残っていたが、今はそんな面影もない。まるで戦争が無かったかのように、東京は平和で繁栄していた。
 だが、俺は観光に来たわけではない。伊那家の財産を見直してみると、遊んでいる土地がいくつかあったので、それを整理しに来たのだ。まったく戒弥の奴は、せっかくの資産を有効に運用できていない。何の利益も生まず、ただ税金だけを絞られている土地があるなんて、間抜けもいいところだ。
 俺は伊那家の土地を視察し、不動産屋と相談、有利な条件で売却や賃貸の契約を結んだ。
 一通り用事を済ませると、俺は東京見物を楽しむことにした。バー、映画、賭博、高級レストラン、売春婦。退屈な田舎村にはない娯楽が、目白押しだ。
 とりあえず、女を買おうか。俺は胸をときめかせて、街を物色した。若くて綺麗な娘がいい。だが街娼は、厚化粧の肌荒れした女が多かった。あんな汚い肌は、嘗める気にならない。
 そんな中、掃き溜めに鶴のように、卵のような艶やかな美白の少女が立っていた。顔も可愛らしい。気に入った。俺は彼女に声をかけた。交渉成立。
 女の手に引かれて、宿に赴く。安宿だ。
「どうせならもう少し良いホテルにしたら?」
 俺が言うと、彼女は首を振った。お金がないという。貧しいから売春している娘のようだ。健気だ。
「お金は僕が出すから、綺麗なホテルに行こうよ。楽しませてあげるよ」
「いいです、そんな……悪いから」
 娼婦なのに、つつましい娘だ。僕は感心した。よし、サービスが良ければ、料金の他に多少の小遣いをやろう。
 けれど、部屋に入った途端、男が押し入ってきた。
「やい、おまえ、人の娘に何しやがる!」
 ドスをきかせて怒鳴り、金を要求してきた。驚いた。美人局か。
 なるほど、だから他のホテルに行きたがらなかったのか。
 なあんだ。俺は幻滅した。せっかく、ちょっと可愛い娘だなと思ったのに。
 畜生。
 こいつら、俺を騙した。俺を怒らせた。
「聞いてるのか、おまえ! 娘はまだ、十三なんだぞ! そんな子供に手を出して、タダで帰れると――」
 男のだみ声は、俺の金蹴りで止まった。どんな屈強な男も、金は急所だ。俺は間髪入れず、男の両眼に指を突き入れた。眼球が破裂した。
「ぎゃーっ」
 男が、耳をつんざく悲鳴をあげた。うるさい。俺は小卓にあった鉛筆を手に取った。それを迅速に男の喉に突き刺し、抜いた。天井まで血が吹き上げ、男の悲鳴はくぐもったゴボゴボという音に変わった。
「やれやれ」
 ようやく静かになった男に息をつき、俺は血に濡れた手を拭った。鉛筆の指紋もふき取っておく。
 男はいかつく大柄で、俺より腕力がありそうだったが、簡単に勝てた。人を殺すなんて、あっさりしたものだ。たいした体力も度胸も必要ない。
「あ……あ……あ……」
 女は真っ青になって、ベッドにしゃがみ込んでいる。腰が抜けたらしい。
「さて」
 俺は女に向き直った。女の細い肩が電流に触れたようにビクリと戦慄いた。
「いや……助けて……」
「駄目だよ。君は僕を裏切ったんだから」
 俺は出口を背に、女に近づいた。無論、この女も男同様、生かしてはおかない。
「私は、嫌だって言ったんです! 養父が……この男が、客を取らないと殴るから……だから……」
 どんな理由があろうと、俺を騙そうとした事は変わらない。第一、この女の言うことなんか、もう信じられない。

「ふうん。処女だったのか。十三歳っていうのは、本当だったのかな」
 少女の死体を見下ろし、俺は軽く口笛を吹いた。女の子は早熟だ。どうりで、肌が瑞々しかったわけだ。もしかしたら、養父に美人局を強要されていたのも、本当だったのかもしれない。
「君が悪いんだよ。俺を騙さなければ、普通に可愛がってお小遣いもあげたのに」
 俺は、まだ暖かさの残る少女の頬を、軽くつついた。馬鹿な子だ。
 俺は風呂に入り、返り血を落とした。部屋に戻り、証拠を残していないか、点検する。ウン、指紋も拭いたし、忘れ物も無い。俺は何事もなく、安宿を出た。
「やれやれ、あんな子供の美人局に引っかかるなんて、都会は油断できないな」
 俺は肩をすくめた。都会の雑踏に紛れる。
 それにしても、あんな十三歳の小娘まで、俺を欺くなんて。女は皆、裏切るんだな。お母さんも佐和も透緒子も。せっかく、愛してあげたのに。
 本当に、女は魔物だ。美貌としなやかな体、優しい振る舞いで気を引いて、いざとなったらアッサリ裏切る。女たちは俺を殺人鬼、異常者だと言うけれど、彼女たちのほうが上手じゃないのかなあ。俺は一度だって、女を裏切ったことはないのに。
 女を裏切らせないようにするには、殺すしかないのかなあ。
 女遊びに幻滅し、俺は他の遊びをすることにした。食道楽、映画、名所巡り。でも、そんな刺激のない健全な遊びは、一週間もしないうちに飽きてしまった。その間、安宿で発見された美人局親子殺人事件が紙上でしばし取り上げられていたが、官憲の捜査が俺に及ぶことはなかった。証拠は消したし、誰にも見られていないのだから、当然だ。
 そろそろ、せせこましい都会を出て、静かな田舎村に戻るとするか。その段になって、俺ははじめて、伊那家に置いてきた弟のことを思い出した。
「そういや、戒弥を置き去りにしてきたっけな。あいつまだ、生きてるかなぁ……」
 一週間も飲まず食わずじゃ、死んでるかもしれないな。でもあいつ、弱そうに見えて結構しぶといからな。古井戸に落としても生きていたし。今は大人になっているからもっと頑丈になって、ちっとやそっとじゃ死ななくなっているかもしれない。もし死んでいたら、地下牢ごと埋めるだけだ。
 帰りの列車に揺られながら、俺はウトウトと微睡んだ。殺した女たちの裸形が、夢に浮かんだ。もう彼女たちは、俺を裏切らない。



 僕はもしかしたら、九歳の時からずっと、古井戸の底に居たのかもしれない。そして僕はずっとずっと、兄を待ち続けていたのだ。
 空腹と乾きに朦朧となった頭は、現実と空想の垣根など、とっくに越えていた。僕はまだ古井戸の底にいて、永遠に兄を待っている。そう思えてならなかった。
 世界には僕と兄しかおらず、この十五年間の出来事はすべて夢だったのではないか。佐和という可愛い姪が生まれ育てたのも夢なら、義彦じいさんに育てられたのも夢、中学、高校、大学にまで行ったのも夢。透緒子という美少女を引き取ったのも、夢だったのでは。僕の家族は兄しかおらず、他の人は全部夢だったのではないだろうか。
 ああなんて長い夢を見ていたんだろう。夢の中にまで兄は登場し、僕の家族を全部奪ってしまった。どこまでも僕は、兄に勝てない。
 僕は兄を待っている。なぜ彼を待っているのか、もう分からない。彼だけが、僕をここから出して救ってくれるからか。いや、あの兄は僕を助けてはくれない。それなのになぜ、僕はこんなにもあの人を待っているのだろう。
 残酷な兄。強い兄。快活な兄。賢い兄。美しい兄。
 ああ、兄は僕のヒーローだ。僕が欲しいもの、届かないものを生まれながらに持っている、天才だ。その強さと魅力の前に、僕はただ、平伏すしかない。犬が主人に平伏すように。
 兄は残酷だ。彼に愛情や優しさはない。いくら焦がれたって、彼から何のお返しも期待できはしない。憧憬を寄せて、返ってくるのは冷笑と虐待だ。
 それでも僕は兄を待っている。助けてくれないのは分かっているけれど、待っている。
 愛してるんだ。
 あんなに恐ろしい、情の欠片もない男なのに、僕は彼を愛している。
 兄はヒーロー。絶対に敵わない、無敵の悪魔。だから愛している。崇拝している。兄さんはすごい。
 兄さんが僕を愛してくれなくてもいいんだ。こんな僕では、兄の目に留まるなんて、無理だ。ただ僕が、一方的に、兄さんに憧れている。それだけなんだ。だから、兄が来ても来なくても、僕は彼を待ち続ける。
 独りぼっちの暗闇は、なんて孤独で寂しいのか。
 幻覚とも想起ともつかない風景が、心に浮かぶ。古井戸に落ちる前のこと。兄の後を追いかけた、少年の日々。
 まって兄さん、ぼくをおいていかないで、おねがいだからふりむいて――
 兄がうるさそうに振り返る。ああ、それだけで、とてもとても嬉しくなる。けれど彼が振り向くのは、僕を殴る時だけだ。兄は振り返って、僕を殴る、蹴る、叩く――痛い記憶。でも、幸せな記憶。兄さんがぼくにかまってくれた。少年時代の微睡みに、僕は微笑む。
 そして、幻覚から覚めると、暗黒が広がっている。
 孤独。兄は殴ってさえくれない!
 涙が、流れる。こんなに乾いているのに、涙が出るなんて。
 兄さん。兄さん。兄さん。
 ここは本当に、辛いよ。飢えや乾きよりも、孤独が、もっとも僕を苦しめる。
 兄さん。助けてくれなくていいから、殴るためでもいいから、ここに来て。
 怒りもない。恨みもない。恨み憎しみは、兄への崇拝に変わった。こんなに酷い目に遭っているのに、僕は何もできない。兄は、僕をどうにでも出来る。兄には敵わない。勝てない。兄さんはすごい。崇拝は愛になり、渇望になる。
 夢も現もなくなり、恨みつらみは崇拝に同化され、生死の境を彷徨っていると――
 かすかに、物音が聞こえたような。兄さん? それとも、幻聴?
 明かり。僕は渾身の力を絞り、顔をあげる。
「ああ、生きてるか。弱虫のくせにけっこう頑丈だな、おまえ」
 兄さん? 兄さんなの? 幻覚じゃないの? 僕は必死に、彼を見上げる。
 明かりを手に、まるで高天原から天下ってきた英雄神のように、神々しいまでの兄の姿があった。すらりと均整のとれた体、白皙の美貌は自信と力に溢れている。ああ、兄は僕と同じ顔立ちをしているけれど、僕の百倍は美しい。
 兄さんが、来てくれた。絶対来てくれないと思っていたのに。殴るために、来てくれた。
 嬉しい。
「やつれちゃったな。綺麗な顔が台無しだ」
 兄はそう言って、格子の向こうで、料理を広げた。そして僕の目の前で、食事を始めた。
「あ……あ……」
 僕は喉を鳴らし、料理を凝視した。忘れていた空腹が甦る。焼けるような乾き。
「に……兄さん……僕にも……」
 無い唾を飲み込み飲み込み、格子の隙間からすがるように腕を伸ばす。我が腕ながらゾッとするような細さで、それなのに重い。力が出ない。
 兄は僕を無視して、食事を見せつける。
「コレちょっと不味いなあ。ああ、コレは旨い」
 兄は、食べ物をより分け、舌鼓をうった。
「兄さん……」
 もう腕を持ち上げる力もなくて、僕は項垂れた。
「ああ、食った食った。ごちうそうさま」
 兄はめぼしい物だけ平らげ、半分以上残して、合掌した。しばしくつろぐ。僕の目は、残り物に釘付けになっている。ああ、あの残り物でもいいから、食べたい。
「じゃあ、犬に残飯をやろうかな」
 残り物を手に、兄はゆっくりと立ち上がった。格子を開く。兄が来る! 僕は衰弱した体を戦慄させた。あれほど待ち望んでいた兄だけれど、側に来るとやはり恐ろしい!
 震える僕を、兄は冷ややかに見下ろした。
「ホラ、犬コロ。ご主人様が餌をやるぞ。ありがたく食え」
 上段から言って、残飯を地面に置いた。僕は呆然と、差し出された残飯を見つめた。残飯は冷め切って、固そうで、菜っ葉の切れっぱしや肉の脂身、地味な総菜しかなかった。
「どうした? 残飯では不服か?」
 兄さんが首を傾げる。
「ありがとうございます……」
 僕は精一杯、かすれた声を絞った。不服だなんて、とんでもない。嬉しくて、有り難くて、涙が出そうだ。
 ただ食べ物を恵んで貰ったからだけじゃなく、兄が僕に食べ物を下賜してくれた、そのこと自体が、本当に本当に嬉しい。孤独と空腹、恐怖、衰弱が、僕をすっかり卑屈にしていた。
「おい、ちょっと待て」
 残飯にかぶりつこうとすると、兄に止められた。
「犬なんだから、箸を使うなよ」
 ああそうか。僕は箸を置き、犬食いをした。プライドなど、もうありはしない。兄は僕の惨めな様子を、薄笑いを浮かべながら、眺めていた。
 きっと、食事が終わったら、兄は僕を殴るんだろうな。この弱り切った体では、暴行に耐えられず死んでしまうかもしれない。でも、いい。兄になら、殺されてもいい。何をされてもいい。
 けれど、食べ終わっても、兄はただ僕を見下ろしているだけだった。
 殴らないの? キョトンとしていると、兄は残念そうに言った。
「東京帰りで疲れた。これ以上いたぶるのは、明日にしてやるよ」
 なあんだ……安心と同時に、落胆した。今日は、殴ってくれないんだ。もしかして、僕の体を気遣ってくれたのか。いや、この人に限って、それはない。ただ本当に疲れているだけなんだろう。
「あ……」
 兄が立ち去りかけ、僕は咄嗟に彼の袖を握った。
「なんだ? 何か用か?」
 兄に振り向かれ、嬉しさと恐怖がこみあげる。愛してる、怖い、居て欲しい、近づかないで。相反する感情の渦に、僕はどうしていいか分からなくなった。
「あの……あの……」
 口ごもる僕に、兄は冷ややかな一瞥をくれた。
「おまえは本当に、虐められるのが好きなんだな。俺になぶられる為だけに生まれたんだ」
「……」
 言い返せなかった。そうかもしれない。痛いのは辛いはずなのに、僕はこの虐待者を崇拝しているのだから。兄は異常者だが、僕も彼に負けない変質者なのだろう。
 兄はふっと目を細めた。優しい表情。ドキリとした。この人は時々、ものすごく優しく微笑む。
「おまえだけは俺を裏切らないな」
「え……?」
 戸惑う。どうしたんだろう、兄さん。兄はそっと僕の頬に触れた。恐ろしさにビクリとなった。でも彼の手は温かくて、まるで愛撫のように柔らかく触れた。
 どうして、どうしてこの人は、生まれつき愛情を持たぬ心の片輪でありながら、あどけなく微笑み、温かい手を持ち、殴るのと同じ手で、優しく触れることも出来るのだろう。
 僕の頬を滑るこの指は、多くの人を容赦なく殺し、僕を殴った手であるのに、どうしてこんなに、温かいのだろう。残酷なのに優しい。どうして。どうして。
「兄さん。兄さん……」
 兄の不思議な優しさにたまらなくなって、僕は彼の温かい手を取った。長い指、大きな手のひら。透緒子とは違う、でも透緒子より愛しい。透緒子さん、ごめん。君の華奢な冷たい美しい手よりも、僕を撫で、そして殴るこの温かい手が、僕は。
 透緒子が好きだった、佐和や正平も大事だった、でも家族の誰よりも僕は、この残酷で優しい兄を慕っていたのだ。子供の頃から。誰よりも。
「もう、いいだろ」
 飽きたのか、兄は僕の弱い握力を振り払った。
「気が向いたら、虐めてやるよ」
「兄さん……」
「俺は汚い犬は嫌いだ。虐めてほしかったら、身綺麗にしておけ」
 吐き捨て、もう振り向きもせず、兄は出ていってしまった。
 闇と孤独が残る。
 また、兄を待ちこがれる長い時間が始まる。
 ああ。
 絶望と憔悴。
「……?」
 格子にもたれ、僕は違和感に気づいた。何だろう?
「あ……」
 探り、僕は闇の中で目を剥いた。
 格子が、開いたままだ!
 なんと兄は、鍵をかけるのを忘れたらしい。あの賢い兄が。信じられない。本当に、余程疲れていたのだろう。兄がこんなミスをするなんて。
 僕は手探りでそろそろと、牢から出た。脱出できる。出られる。この地下の暗黒から。自由になれる。心臓が高鳴った。なんという幸運!
 兄に気づかれたら殺される。僕は細心の注意を払い、息を潜め抜き足差し足、闇の中を進んだ。時間をかけて、ゆっくりゆっくり、階段を踏みしめる。わずかな音もたててはいけない。
 階段を登り切ると、緊張で汗みずくになっていた。
 じわじわ、天井の扉を開く。
 眩しい。
 外界は、夕刻のようだった。けれど、地下の闇から這い上がってきた者の目には、夕暮れの薄明かりでさえ、光明に見えた。空気すらも、違うもののようだ。なんて広く、光に満ち、清々しいのだろう。地上がこんなに素晴らしかったなんて。
 外界の様子に勇気づけられ、僕は思い切って、地上に出た。ああ、地上だ。人間の世界だ。何十年ぶりに、地上に戻ってきたような気がする。
 そろり。僕は足を忍ばせ、歩き出した。屋敷は静かだった。兄は、どうしたのだろう。どこにいるのか。油断してはいけない。
 体はまだ衰弱していて、動くと目眩がした。一週間も絶食し、残飯を食べたきりなのだ。歩くだけでも重労働。でも、倒れて音を立てるわけにはいかない。兄に気づかれる。休むわけにもいかない。もう、こんなチャンスは、二度とないだろうから。
 兄に気づかれる前に、屋敷を出なくては。
 出口に、向かう。
「……!」
 僕は、声のない叫びをあげた。出口への途中の部屋。兄の姿が見えた。凍り付く。
 幸い、兄は眠っていた。けれど、胸を撫で下ろすのは早い。屋敷を出るには、どうしてもこの部屋を横切らなくてはならない。
 猛獣が寝ている部屋を通るようなものだ。彼が目を覚ませば、命はない。
 どうしよう。この部屋を横切るくらいなら、牢に戻ったほうが安全ではないのか。そんな考えさえ、よぎった。
 ふと、視界の隅が光った。見ると、流しに刃物が置いてあった。
 ……。
 窮鼠猫を噛む。今なら、あの包丁で、兄を殺すことも出来るのではないか。恐ろしい思いつき。だがそれは強烈な誘惑だった。
 一度でいい。兄に勝ってみたい。
 自由になるためだけでなく、復讐するためでなく、ただ純粋に、彼に勝ってみたいという気持ちが、わきあがった。
 兄が眠っていなければ、武器がなければ、こんな大それた事は、思いもつかない。有利な状況、きっと勝てるという幸運に、僕ははじめて、兄への殺意を抱いた。いや、兄に勝ちたい思いは、昔からあった。でもそれよりも、怯えと崇拝のほうが強かったのだ。
 でも、今なら。
 奇跡的な状況、圧倒的な有利さに、僕の中で今まで抑制されていた殺意が、頭をもたげた。
 こんな幸運は、二度とない。これを逃したら、僕は一生、兄に勝てない。
 兄を愛しているけれど、彼を殺したいとも思う。憎いからというより、崇拝しているから。金閣寺を燃やした僧侶のように。キリストを売ったユダのように。愛し、崇拝しているものを、壊してしまいたい。屈服させたい。でも、いくら有利とはいえ、あの恐ろしい兄に挑むのは、命がけだ。
 恐怖と誘惑。限界を越えて、それはもう、快感ですらあった。僕は包丁を握った。汗でぬめる。兄が目を覚ますかもしれない。逆に、やられてしまうかもしれない。
 心臓が、耳までせり上がったかのように、激しく鼓動する。兄を殺す。兄を殺す。いつもいつも僕を見下し支配した、絶対暴君を、殺す。手の届かなかったヒーロー。追いつけなかった兄の背。それを突き倒し、はじめて追い抜く――
部屋に、足を踏み入れた。兄は、ぐっすりと寝ていた。殺さずとも、部屋を通り過ぎることは出来そうだった。でも僕は、包丁を握りしめ、兄に近づいていった。
 心臓を刺そう……いや、布団を被っているから、心臓に届かないかもしれない。首だ。首を掻き切ろう。とにかく一撃で、急所を突いてしまわないと、勝ち目はない……。そんな恐ろしいことを考えながら、猫のように兄に近づく。
 側まで来て、兄の寝顔を見下ろす。
「……」
 嘆息。兄は、このうえなく無邪気な表情で、眠りこけていた。これが人を殺した男かと疑うような、幼さを感じさせる寝顔。従順な弟が刃を剥こうとしていることなど露知らず、あどけない表情で寝ている。なんという無防備。兄が、愛らしくさえ見えた。恐ろしい殺人鬼が、こんなしどけなく無心に眠っているなんて。
 今なら、簡単だ。衰弱した僕でも、意気地なしの僕でも、あっさりと、兄の命を断ってしまえる。僕は包丁を構えた。振り上げる。でも、なかなか振り下ろすことが出来ない。無抵抗の相手を刺すことに躊躇しているのか、その幼い表情のためか。
 半端な躊躇いを感じている場合ではない。眠っていても、これは怪物なのだ。生半可な気持ちでは、勝てない。軽薄な感傷などに捕らわれていたのでは、返り討ちにされる。
 息を吸い込み、意を決して刃を振り下ろそうとした時。
「お父さん……お母さん……」
 兄が、呟いた。目を覚ましたのかと戦慄したが、そうではなかった。寝言に気勢を削がれ、僕は一瞬、戸惑った。
 なんだ? 兄は、両親の夢を見ているのか? 自分で殺した父母の夢を?
 信じられない。一体、どんな夢を見ているんだ? 僕は殺意も忘れて、兄のひどくあどけない寝顔を見つめた。
 兄は、ぎゅうと指を縮め、布団を掴んだ。彼は弱く呟いた。
「お父さん……ぼくを見捨てないで……お母さん……ぼくを裏切らないで……」



 目が覚めると、昼近くになっていた。よく寝た。結構疲れていたようだ。でもこれだけ寝ると、ずいぶんと頭と体が軽くなった。
「おや?」
 頬に湿りを感じて、俺は自分の顔に手をやった。濡れている? なんだか、泣いていたみたいだな。はて? この俺が涙を流すとは。我ながら驚きだ。一体、何の夢を見ていたんだ? 悲しい夢か?
「悲しい……?」
 俺は首を傾げた。そんな感情は、俺には無い。思い出そうとしても、夢の内容は消えてしまっていた。
「フン、馬鹿馬鹿しい」
 俺は頬を拭った。もう、瞳は乾いていた。
 起きあがり、顔を洗い食事をする。おいおい、女中でも雇ったほうがいいかもしれない。だが、女は裏切るからな。まあ、裏切れば殺すまでのことだ。
「さて、犬にも餌をやるか」
 疲れが取れて、今朝の俺は機嫌がいい。いたぶりついでに、戒弥に飯を持っていってやることにする。もちろん、残飯だ。それでもあいつには上等な餌だ。
 残飯を抱え、俺は地下室に降りていった。
「……!」
 格子の鍵を開けようとして、俺は目を見張った。
 開いてる!
 驚愕。戒弥め、鍵を開いたのか? あいつにそんな知恵があったなんて!
「……」
 俺の焦りは、戸惑いに変わった。戒弥は、牢の中でうずくまっていた。
 こいつ、逃げなかったのか。鍵を開けたんじゃないのか。
 面食らう俺を、戒弥が見上げる。眩しいものを見るように。
「兄さん。僕は、裏切らないよ」
 は? 何言ってるんだ、こいつ。俺はますます面食らい、目を瞬いた。せっかく鍵が開いていたのに逃げていないし、訳の分からないことを言うし。戒弥はとうとうおかしくなってしまったらしい。
「ハハハハ」
 俺は、壊れた弟を見下ろし、嗤笑した。馬鹿な奴。ここまで、愚鈍だったとは。
 戒弥が、崇拝するように俺を見上げ、膝を擦って寄ってきた。
 狂ってまで、俺になついてくるか。子供の頃からそうだった、こいつはどれだけ虐めても、俺の後をついてきた。虐められるのが好きなんだ、どこまでも犬なんだ。
「殴ってもいいよ、兄さん」
 戒弥が、恍惚とした表情で言う。ああ、殴るさ。当たり前だろう。おまえはそのためだけに存在するんだから。



 どうして僕は、千載一遇の幸運を捨ててしまったのか。
 分からない。分からない。こんなに痛いのに。こんなに辛いのに。
 兄は、笑いながら、容赦なく僕を殴る。そして飽きたら放り出し、気が向いたらまたなぶる。その繰り返し。
 一時の憐憫のために、取り返しのつかない絶望の底に落ちてしまった。地下牢に監禁されて、残飯を犬食いして生きている。兄以外の誰に会うこともなく。希望の欠片もない。人間の暮らしではない。
 それなのに。
 ああ僕は、闇の中でずっと兄を待っている。なぶられるだけだと分かっているのに、兄が来てくれるのを待っている。そして、兄が登場すれば恐怖に震え上がる。
 殴られれば痛い。蹴られても痛い。軽蔑されれば傷つく。いいことは一つもない。
 それなのに僕は兄を待ち続け、焦がれ続けている。あの残酷な狂人を、僕はどうしようもなく慕っているのだ。僕を絶望に突き落として笑う男を、どうして僕はこんなに愛しているのだろう。
 兄は狂っているが、僕も狂っているのだろう。
 兄は、僕を罵倒し痛めつけながら、ほんの時折、優しいような顔をする。それが愛情や優しさからではないのは分かっているけれど、彼に欠片の良心もないのが信じられないような、慈愛に満ちたように見える笑み。
 それは単に、僕を痛めつけて満足しているだけの微笑みなのだけれど、そんな残酷な優越からくる微笑みなのに、なんて優しく笑うんだろう。殺人鬼の笑顔に、僕は聖母マリアを見る。
 また兄は、時々僕の頬に触れる。愛撫のような柔らかい手つき、温かい指。これも、愛情表現では決してなく、ただ彼のナルシシズムに過ぎないことも分かっている。けれど、その感触はやはり、優しい。
 兄がたまに見せるそうした「優しさ」は、まるで甘露のようだ。痛みを忘れさせてくれる麻薬のようだ。兄が残酷であればあるだけ、その「優しさ」は、たまらなく僕を魅了する。
 だが、僕が本当に愛してやまぬのは、兄の奇妙な優しさではなく、その残酷さなのかもしれない。僕を踏みつけ、見下す兄は、強く神々しい。僕ではとても敵わないと思う。
 兄さんは強い。強いから美しい。僕のヒーローなのだ。
 僕は彼の力を尊敬する。兄がその力を発現する時、つまり僕をなぶる時、彼はもっとも輝く。
 兄は光り輝く英雄となって、僕を踏みしだく。
 ああ。
 愛する兄が下す痛みこそが、僕にとっての真実の甘露なのか。
 この甘い痛みこそが麻薬なのか。
 狂気のマゾヒズム。
 僕は絶望の底にいるのではなく、歓喜の頂上にいるのかもしれない。


 終わり

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