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痴人の愛


第一章 神原 優

 第1節

 私の一日は、午前六時に始まる。
 枕元には目覚ましがセットされているが、私は一度として、そのベルの音を聞いたことがない。いつも鳴る前には、目が覚めるのだ。だが私は慎重な性格なので、必ず目覚ましをセットしている。
 私の朝は規則正しい。六時七分に、洗顔を終えて食卓についている。
 私が席に着くまでには、朝食が用意されていなければならない。妻は低血圧のためか、朝の支度が遅い。私を苛立たせる。六時七分までに食卓が出来上がって いなければ、私は妻を怒鳴る。新婚の頃は多少大目に見ていたが、結婚生活も三年経つと相手に新鮮味はなく、妻の仕事に及ばない点があれば、私は容赦なく怒 鳴りつける。
 私は、いわゆる亭主関白な男なのかもしれない。しかし、佐知子のような平凡愚昧な妻は、夫が指図してやらないといけないのだ。
 昨日叱責したためか、今日はちゃんと定刻に食事が出来上がっていた。よろしい。私は無言で、朝食を平らげた。主婦は家事をこなして当たり前なのだから、定刻に食卓が出来ていても、とくに褒めない。ただ怒鳴らないだけだ。
 佐知子は私の向かいで、もそもそと箸を運んでいる。妻のくせに夫よりも食事が遅いとは、無能な主婦だ。佐知子は、いちいちとろい。そのとろくささは、忙 しい朝には神経に触る。それにしても今朝は、いつもにもまして、箸が遅い。せっかく早く食卓を拵えても、これでは帳消しだ。
 元々大人しい女だったが、結婚当初はもう少し溌剌としていたのに、いつから佐知子はこんな陰気になったのだろう。
「いつまで喰ってるんだ」
 怒鳴らないまでも、尖った声で言うと、佐知子は細い肩を縮めた。
「あのう……」
 佐知子は箸を置き、私を上目遣いに見つめた。
「何だ?」
「……」
 佐知子は俯いた。何なんだ。私は舌打ちした。
「用がないなら、話しかけるな。まったく……」
「お話があります」
「朝は忙しい」
「今日は……早く帰っていらしてください」
「ふん」
 私は鼻を鳴らし、立ち上がった。
 百八十七センチの身長をアルマーニのスーツに包むと、一階の自宅ガレージに下りた。クラウンとメルセデスが仲良く並んでいる。私はクラウンを選択して、カーナビを立ち上げた。
 カーナビに頼るまでもなく、無論自分の勤務地くらい分かっている。わざわざカーナビをつけたのは、自分が開発した製品の具合を確かめるためだ。この最新型カーナビのプログラムは、私が手がけたものだ。
 私は数学者だ。二十七歳の大学教授で、教壇最年少。研究の傍ら、趣味でプログラムやシステムの解析などをしているが、それが特許や商品化に結びつくこと が少なくない。本職の研究のほうでも、著名な賞を何度か受けている。まあ、優秀な学者なのだろうが、それは私の生い立ちからすれば当然のことだ。
「……おや?」
 スムーズな運転が、ふと滞った。
 カーナビの表示がおかしい。この道は最短ではない。設定を確認してみたが、入力に間違いはない。すると、カーナビのシステムに不具合が生じたのだろうか。
「おかしいな」
 俺の作ったプログラムに、バグがあったとは。私は驚いた。私の作るプログラムはほとんどバグはなく、デバッグも徹底している。こんな不具合ははじめてだ。
「くそ」
 作品の欠陥を見つけ、私は舌打ちした。完璧は美しい。完璧でないものは美しくない。どこがバグっていたのか分からないが、後で徹底的にチェックしなくては。
 そんなことがあったので、いつもなら定時の三十分前に余裕を持って到着するはずが、十五分前になって着いた。
「センセーおはようございまぁす」
 ミニスカートにキャミソールという露出に派手な化粧の、頭の悪そうな女子学生の黄色い声がかかる。私は不機嫌に会釈を返した。
「センセー今日は遅かったですネー。どーしたんですかぁ。ユミ、十五分も待ちぼうけしちゃったぁ」
 バカ女子学生が下品なまでに赤い口を尖らせる。誰もおまえと待ち合わせなどしていない。私は無視したが、女子学生はまとわりついてきた。
「前から思ってたんだけどぉ、センセーってぇ、日本人離れしてますよねぇー。手足長いしぃ、カッコイイしぃ、もしかしてぇ、外人の血がぁ、入ってるんじゃないですかぁ?」
「……」
 私は立ち止まり、ユミとかいう娘を振り返った。ユミは目を丸くした。
「センセ、どーかしましたかぁ?」
 よほど、私の顔が強ばっていたらしい。こんな小娘相手にムキになるとは。私は表情を和らげた。
「別に」
 私はユミを切り離すように、早足で歩き去った。
 ユミを引き離してほっとすると、角で人とぶつかった。その拍子に私は、無様に尻餅をついてしまった。
「だ、大丈夫ですか、神原教授」
 ぶつかった男が、狼狽えながら、ぶくぶくと丸い手を差し出してきた。私は男を睨んだ。
 細木亮。三十九歳の助教授で、その名字とは裏腹に、ブヨブヨと太った男だ。私も大柄なほうだが、太ってはいない。こいつは私より二十センチは背が低い が、体重は私の倍はあるだろう。質量差のあるものがぶつかると、軽いほうがすっ飛んでいくという物理法則を実演し、私は顔をしかめながら立ち上がった。細 木の手は借りない。
「気をつけろ」
 私は細木に吐き捨てた。ぶつかったのはお互い様なのだが、私はこのだらしなく太った男が嫌いなので、一方的に彼に責任を押しつけ、研究室に入った。
 やれやれ、今日はなんだかついていない日だ……。
 気分直しのコーヒーを飲みながら、私は仕事に取りかかった。
 パソコンの電源を入れると、モニタが輝く一瞬前に、やや彫りの深い若い男が、眉間に気難しそうな皺を寄せているのが映った。

 第2節

 ユミが言った通り、私は純血の日本人ではない。
 父親は誰だか知らぬが、おそらくはアングロサクソン系の男であろう。私のIQや容貌は、そいつに似たのだと思う。母親は、大金をはたいて精子銀行から優 秀な精子を買った。天才の遺伝子をもって生まれた息子に、優れているという意味の名を付け、母はさらなる投資をした。寝る間を惜しんで働き、収入のほとん どを、私の学費にあてた。おかげで私は、才能を遺憾なく伸ばし、二十代で大学教授となり、豪邸と高級車二台を構えて優雅に暮らす、結構な身分になれた。可 哀想に、あんなにも私の出世を楽しみにしていた母は、私が大学を卒業すると同時に過労で死んでしまったが。
「おかしいな」
 私はカーナビのプログラムチェックをしながら、唸った。もう定時で仕事は終わってしまったので、後の時間を大学の仕事とは離れたことに使っている。
「ど、どうかしましたか?」
 まだ自分の仕事が終わらない細木が、どもって訊ねた。こいつは一回りも年下の上司である私を萎縮しながら、機嫌を取るように気持ち悪く媚びる。醜い体に卑屈な心。鬱陶しい。私は無視して、チェックを続けた。
 今朝はバグがあったように思ったが、チェックしてみるとそれらしいものは見あたらない。やはり私のプログラムは完璧だ。今朝のは、何だったのだろう。腑に落ちず、私は何度もプログラムを見直した。

 結局バグは発見できず、帰宅したのは深夜になっていた。当然妻たる佐知子は起きて夫を待っていたが、愚図ながら従順な彼女には珍しく、怒っていた。
「あなたはもう、私を愛していないのですか?」
 疲れて帰ってきて、第一声がこれだ。私はキョトンとなった。
「なんだ、いきなり」
「今日はお話があるから早く帰ってきてと言ったじゃないですか」
 ああ、そういえば、そんなことを言っていた。すっかり忘れていた。
「今更改まって、何の話があるっていうんだ。疲れてるんだ、もう寝るぞ」
「そうやって、いつもいつも……私の話なんか、聞いてもくれない……」
 佐知子が低く唸った。なんだ、今日は佐知子の奴、うるさいな。生理か? これだから女は……。私はとりあわず、ベッドに潜ろうとした。
「あ、あなたは、頭がいいから、私のこと、ことなんて、バカだと思って、け、軽蔑してるのかもしれないけど、」
 尾を引くような、佐知子の愚痴。ああうるさい。亭主が疲れて眠いというのに、何なんだ。三食昼寝付きで贅沢な暮らしをさせてもらって、まだ文句があるのか。私は腹が立って、起きあがった。
「……」
 私は、小言を飲み込んだ。
 佐知子が、泣いていた。妻が涙を流しているのを見るのは、はじめてだった。涙が睫を濡らし、白い頬を滴り落ちていく。妻の睫は、こんなに長かっただろうか。一瞬、ドキリとした。
「ど、どうしたんだ、佐知子」
 私は柄にもなく狼狽えた。
「具合でも悪いのか?」
 私が覗き込むと、佐知子は涙を拭って可笑しそうにフッと笑った。また、ドキリとなってしまった。
「優さんでも、狼狽えるんですね……」
「なんだよ」
 決まり悪くなって、私はそっぽを向いた。まったく、毎日顔を付き合わせている女房相手に、狼狽えるなんて。
「話って、何なんだ?」
 私はふくれたまま訊いた。
「いいえ、今日はもう遅いから、明日にしましょう。おやすみなさい」
 ぺこりと頭を下げると、佐知子は何事も無かったかのように、横になってしまった。
 何なんだ? 怒って泣いたかと思ったら、もう落ち着いたのか? 何だ? 一体、何だったんだ? 我妻ながら、女という奴は分からない。釈然としないまま、私も横になった。

 ピヨピヨピヨ……ピヨピヨピヨ……
 なんだ、この変な音は。
 奇妙な電子音が、私を眠りから引き起こした。私は重い瞼を開いた。
「……」
 ぼやけた視界に、見慣れた目覚まし時計がうつった。
 ピヨピヨピヨ……ピヨピヨピヨ……
「……」
 これは、目覚まし時計のベルか!
 驚き、私は完全に目が覚めた。目覚まし時計は六時をさし、マヌケな電子音を響かせている。
 なんと、この俺が、目覚ましが鳴るまで寝ていたとは。
 俺の規則正しい朝の始まりが……。私は軽いショックを受けた。自発的に目覚めることが、ささやかな自負であったのに。俺はいつまでもぐうたら寝ているだらしない人間ではなく、自分を律する男だと、密かに得意になっていたのだが。
 夕べが遅かったからだろうか。意外と疲れがたまっていたのかもしれない。私は頭を振りながら、目覚ましを切った。
「おはよう。珍しいわね、ベルが鳴るなんて」
 佐知子が、これまた珍しく、微笑んで言った。朝日のなか微笑む妻に、起き抜けだからか、私は不覚にも、一瞬だけ、見とれてしまった。
 くそ、調子がおかしいな。女房が笑ったくらいで、なんだっていうんだ。
 その時、私はふと気づいた。
 そういえば、妻が笑ったのは、久しぶりのような気がする。
 佐知子は大口を開けて笑うタイプではないが、結婚当初は、控えめながらもよく微笑んでいたように思う。いつから妻は、笑わなくなったのだろう……。
「どうしたの、あなた?」
 見つめる私に、佐知子は首を傾げた。
「……別に」
 私は視線をそらした。食卓は、まだ出来上がっていなかった。
「……」
 私は怒鳴ろうとして、やめた。
 いつもより少し遅れて支度をし、私はガレージに下りた。今日は、メルセデスにした。

 第3節

 佐知子とは、学長の紹介で知り合った。当時私はまだ助教授で、佐知子は学生だった。名門と名高い××女学院の生徒だったから、今でこそ私は彼女を愚図だ愚昧だと言っているが、本当は才媛なのだろう。
 最初会った時は、美人に見えたように思う。結婚して毎日一緒に暮らしているともう分からなくなってしまうが、佐知子は清楚で大人しいような感じの娘だった。
 たいていの男がそうだが、私も清楚で優しそうな美人が好きだ。
 三歩離れて後をついてくるような、古風な所も気に入った。コンパスの差か、私が先に先に行ってしまうと、不安そうな顔で必死についてくる。私が振り返ると、安心したような顔をする。可愛い女だと思った。この女は俺が一生守ってやるんだと思った。
 付き合っていた頃のことを思い出すと、恥ずかしいような懐かしいような切ないような気持ちになってくる。今はもう、あの頃のような情熱は無いが、大学に向かいながら、今日は早く帰ってやるかと考えた。

 定時に終業すると、私は一路、自宅に向かった。佐知子は一体、何の話をするというのだろう。
「優さん、もう帰ってきたんですか!」
 佐知子は目を丸くした。
「何だ、早く帰れと言ったのは、おまえのほうだろう」
 私は口を尖らせた。
「ごめんなさい、まだご飯の支度は出来ていません」
 あたふたとキッチンに行きかける佐知子を、私は呼び止めた。
「構わん、まだ腹は減ってない。それより、話というのは、何だ?」
 付き合った期間も入れれば、四年も一緒にいて、今更何を話すというのだろう。よもや離婚してくれと言い出すんじゃあるまいな。まさかと思いながらも、私は身構えた。
「あの……」
 佐知子は俯き、口ごもった。何だろう。もしや本当に、別れ話なのか? 私は強ばった。沈黙。私はじっと、佐知子の小さな唇を見つめた。もしその控えめな唇から別れの言葉が出たら、俺たちはおしまいだと思いながら。
 私は自分から愛しているなどと言える男ではない。だから佐知子が別れたいと言ったら、私たちはもう終わりなのだ。
「子供……」
 佐知子の口から出てきたのは、離婚話ではなく、意外な言葉だった。
「子供が……欲しいの……」
 処女のように恥じらいながら、佐知子は呟いた。私は唖然と、妻を見返した。
 子供だと? 私たち夫婦の間に、子供はまだ無い。もっとも、私は二十七、佐知子は二十五で、子供が出来ないと焦る年でもないのだが。
「結婚して三年……子供いないでしょう。優さんはなんだか冷たいし、子供がいれば、もう少し、こう……かすがいになるかなって」
 訥々と、佐知子が言う。私は目を瞬いて聞いていた。
 子供。親子。父親。
 胸の底に、苦いものが走る。
「優さんは……子供は、嫌い?」
 私の表情が険しいのを怯えたのか、佐知子が訊く。私は低く答えた。
「さあな……。ただ、父親というものは、あまり好きじゃない。俺の父親という男は、精子を売るような奴だったからな」

 父親を知らずに育った私は、自分が父親になるところなど、想像もできなかった。子供が好きか嫌いかと言われれば、どちらかというと好きではない。うるさいし汚い。だがまだ許せる。本当に嫌になるのは、大人になってもうるさくてバカな奴だ。
 赤信号にさしかかり、車を止める。小学生らしい子供が、わらわらと横断していく。
「わーっベンツだあっ」
 甲高い声を張り上げて、子供たちが私の車にむらがる。勝手に車に触られ、私は車内で舌打ちした。しかも、信号も青になっている。ガキどもはまったく社会のルールを無視して、唯我独尊に振る舞っている。親はどういう教育をしてるんだ。私はクラクションを鳴らした。
「うわーん」
 クラクションに驚いたのか、子供たちが泣き出した。男が泣くな、バカ。これが大人だったら、反射的に轢き殺していたかもしれない。大学には、子供のまま大きくなったような若者がごろごろいるが、この少年らも将来そうなるのだろうか。
 私の子供時代の同級生も、このようにバカでうるさかったが、彼らは今はどうしているだろう。少しは落ち着いたのだろうか。私は小学校を三年で飛び級した が、周囲の子供たちがバカに思えて仕方がなかった。本気でヒーローになりきったり、怒られるのが明白なのに大切な場所にラクガキしたり。私はそういった遊 びには一切加わらず、冷ややかに同級生の愚行を眺めていたものだ。
 少年時代の私は生意気でひねた可愛くない子供だったかもしれない。だが他の子供もうるさいだけだったから、どっちもどっちだ。
 子供というものは、いつの時代もうるさくてバカなものらしい。やっとメルセデスから離れた子供らを一瞥し、私は発進した。はたしてあんな、うるさくて愚かな者を、愛せるのだろうか。子供を欲しがる女の気持ちは分からない。
 だが私の子供なら、あのような野蛮人ではなく、もう少し利口で落ち着いているかもしれない。いつも礼儀正しく、冷めた目をしていて、黙々勉強する子供。これもあまり可愛いとは言えないが、うるさくなくて手間がかからない分、楽だ。
 大学に着く。
「今日も遅かったですねぇ。どーしたんですかぁ?」
 ユミの黄色い声。私はため息をついた。これだ。このように、二十歳にもなって舌足らずに喋るような奴が、本当に苦手なのだ。
「わあ、おベンツが手形だらけぇ。どーしたんですかぁ? おベンツって、高いんでしょー。センセ、車二台持ってますよねぇー。すごぉい。カッコよくてお金持ちなんて、完璧じゃん。ユミ、おベンツの助手席に乗ってみたいなぁー」
 甘えるように言って、ちらちら胸元を見せてくる。
「ユミくんと言ったっけ」
 私はこめかみを押さえた。ユミはいい年をしてはね回った。
「わぁ、ユミの名前、知っててくれたんですかぁ。ユミ、嬉しーい!」
 それだけ自分の名前を連呼していれば、嫌でも覚える。
「君は大学の入試面接の時も、そんな調子だったのかね」
「えー、もう忘れちゃったけどぉ、面接の時はぁ、俯いてぇ、あんまり喋らないようにしてたかなぁ」
 なるほど。化粧もそんなに濃かったのかと言いそうになったが、さすがに飲み込んだ。
 まとわりつくユミに、数学の定理の話題を振ってやると、ようやく離れていった。
 研究室に入ると、雑然となっていた。細木の奴め、やりかけのまま帰ったらしい。
 どすどすという地響きと共に、細木が入ってきた。
「あ、おはようございます」
 卑屈に丸い体を折る。私はでぶを睨んだ。
「細木くん。仕事が出来ないのはもう諦めたけれど、せめて整頓くらいはきちんとやって帰ってくれないか」
「ああ、すっすみません!」
 細木は慌てて片づけ始めた。だが焦って本を落としたりコードを絡めてしまったり、かえって散らかっていく。
「もういい。俺がやる」
 私は細木を押しのけ、片付けた。五分後、すっきりと整頓されたデスクが出現した。
「あっというまに見違えました。すごいですね、神原教授」
 細木が揉み手をする。無能のごますりは腹が立つ。
「僕がすごいんじゃなくて、おまえが無能なんだ。何一つ、満足に出来ないんだな」
 私は一回り年上の助教授に吐き捨てた。ユミは若いし女だから、幼稚や低脳もご愛敬だが、男で無能なのはただ不愉快なだけだ。細木は一瞬固まったが、またへらへらと追従笑いを浮かべた。私は細木を無視して、論文にとりかかった。

 第4節

 帰宅し、私は佐知子と、子供について話し合った。妻と向かい合って話などするのは、久しぶりだ。佐知子は真剣に、子供が欲しい気持ちを語った。彼女の真摯さに、私は驚いた。佐知子がそれほど、子供を欲しがっていたとは。
「正直に言って、俺はそれほど、子供が好きじゃない」
 妻の真剣に対して、私も正直に子供への意見を打ち明けた。佐知子は、悲しそうに目を伏せた。私は言った。
「だがおまえなら、いい母親になれるだろうな」

  佐知子は細く見えて、裸にすると意外と豊満だ。それでいて、腰や足首など、締まるべきところは締まっている。妻に触れるのは一週間ぶりか。二十代の夫婦に しては、淡泊かもしれない。新婚最初の半年は、狂ったように連日交わっていたものだが、いくら若くても、今はもう妻の体に新鮮さはない。
 セックスでも佐知子は従順で、ほとんど私のなすがままになっている。まるで苦行であるかのように、眉をしかめ唇を噛む。こういう女に対して、男は二通りの感情を持つ。つまらないという気持ちと、虐めてやりたいという気持ちだ。
 最初は、ベッドで妻をなぶるように抱くことに、サディスティックな興奮を得ていたが、今はそれにも飽きて、その反応を味気なく思うことが多い。
 今夜も妻はじっとしている。佐知子にとってセックスは、子供を作る手段に過ぎないのだろうか。私の脳裏に、生物の教科書に記載された動物の繁殖の事務的な説明が浮かぶ。雄の生殖器を雌の生殖器に挿入、精子を子宮に注ぎ受精、以上。色気のない。
 佐知子は、私と抱き合っていても、楽しくないのかもしれない。それとも私の愛撫では不満なのか。いや、佐知子はそんな淫乱な女ではない。不感症なのだろう。
 佐知子に触れていて、ふと、妻とは正反対のユミのことが浮かんだ。ユミは好きではない、どちらかというと嫌いだが、あの女なら、妻と違ってセックスを楽しみそうだ。
 妻を抱きながらユミと交わる場面を想像し、その心理的背徳に、私は興奮した。

 ピヨピヨピヨ……ピヨピヨピヨ……
 私は目覚ましを止めた。まただ。どうも最近は、たるんできているようだ。
 洗顔とひげ剃りを終えてキッチンに赴くと、佐知子はまだ朝食を拵えていなかった。
「おい、何をノロノロしてるんだ!」
 佐知子はビクリと、戸惑ったように振り返った。
「このところ、たるみ気味だぞ。ちょっと優しくしたら、つけあがるのか?」
「ご、ごめんなさい」
 佐知子は萎縮しながら、そそくさと朝食を並べた。メニューのなかには私の好物も入っていたが、私は別に美味しいとも言わず、平らげた。
 久しぶりに佐知子に怒鳴ったが、そんなに腹が立ったわけではない。己の規律の崩れを戒めるために怒鳴ったのだ。
 今日はクラウン。カーナビの調子もいい。先日の不調は、なにかの偶然だったのだろうか。このカーナビが発売されて、ロイヤリティが支払われる。三台目の新車を買うつもりだったが、佐知子が妊娠したら、それを出産や養育費に回そうか。
 再び横断歩道で、子供の群が通りかかる。信号は赤だがお構いなしだ。こんな傍若無人な輩を愛せるのだろうか。いや、私の子なら、利口で分別があるはずだ。こんな世間一般の低脳の子供とは、違う。

 職場に出向くと、先日受けた人間ドックの結果が返された。この大学には医学部があり、最新設備を用いた詳細な検査を比較的安価で受けることが出来る。そのかわり医者の卵の練習台とも言えるのだが。医師免許取り立ての若造の内視鏡検査など、かなり苦しい目に合わされる。
 私は検査結果の中身を見ずに、鞄に放り込んだ。自己管理や健康には自信があるし、私の健康管理は妻の仕事だ。
 講義を終えて、私は論文の執筆に取りかかった。予定よりも論文の進行が遅れている。学会の発表には間に合うだろうが、予定通りに進まないのは嫌なものだ。
「……あれ」
 私は目を瞬いた。一瞬、自分が書いた数式が、解けなかった。馬鹿な。私はもう一度、数式を見直した。解けた。何だったんだ。
 少し疲れているのかもしれない。論文はあまり進まなかったが、私は定時に仕事を切り上げた。

 私は尻に敷かれた愛妻家でも家庭偏愛夫でもない。私はまっすぐ家には帰らず、車を泳がせた。カーナビを切り、クラシックのBGMを流す。開発されたばかりの新興住宅地は整然としていて、建物は新しく人も少ない。こういう場所は好きだ。
 クラシックの静かな旋律と整然とした町並みに、私は穏やかな安心を覚えた。
 私の人生も、整然順調そのものだ。無能な部下や馬鹿な学生、妻の淡泊さなど、小さな不満はあるが、生活にはおおむね満足している。才能をはじめから与えられ、それによって地位と富を手に入れ、成功した。これからも勝ち続けていくだろう。
 完璧は美しい。
 私は、自分と自分の人生に、おおむね満足している。

 第5節

 ピヨピヨピヨ……ピヨピヨピヨ……
 私は目覚ましを止めた。
 眠い。どうしたことだ。
 このところ、目覚ましは鳴りっぱなしではないか。昨日は論文を切り上げて帰ったというのに。些細なことだが、一日の始まりからつまづいたようで、気分が良くない。
 目を開くと、佐知子の瞳があった。ちょっと驚いた。佐知子は、物憂いような悲しそうな顔をして、私を見下ろしていた。佐知子は無言で、私を見つめ続けている。なんだ? 私は不審に起きあがった。
「佐知子?」
「……」
 佐知子は黙ったまま、キッチンに消えていった。何なんだ。
 首を傾げながら立ち上がり、洗顔とひげ剃りのルーチンを済ませると、朝食はまだ出来ていなかった。
「……おい」
 私は低い声で妻を睨んだ。なんと佐知子は、鈍重な牛のように立ちつくし、支度も何もしていない。
「何やってるんだよ! まだ寝ぼけてるのか」
 怒鳴られても、佐知子は惚けたままだ。鈍いのは分かっていたが、ここまでひどいのははじめてだ。私は怒りを通り越して、怪訝に妻を見た。目の前で手を振ってみるが、反応がない。
「……大丈夫か、おまえ」
 少し不安になって、妻に言う。佐知子は、やっと意識が戻ってきたように、身じろぎした。
「ああ、ごめんなさい。今、作ります……」
 のろのろと、動き始める。動きが遅いうえに、みそ汁に砂糖を入れたり、動作が滅茶苦茶だ。
「やめろ」
 私は佐知子から道具を取り上げた。
「もういい。今のおまえは使いものにならない。寝ていろ」
 私は自分で、料理を始めた。佐知子は目を丸くして、私がみそ汁と焼き魚と卵焼きを拵えるのを見た。
「優さん、料理できるの?」
 驚いたように言う。母を亡くしてから結婚するまで自炊していたので、一通りの家事は出来る。だが結婚してからは、一度も包丁など握ったことはない。久しぶりだからか、十分もかかってしまった。
「美味しそう……優さんは、何でも出来るのね……」
 佐知子は目を伏せた。睫が、影を落とす。
「今日のおまえは変だぞ。どうかしたのか?」
 朝食をかきこみながら、私は妻の様子を窺った。顔色が良くない。本当に具合が悪いのかもしれない。
「なんでもないの……ごめんなさい……」
 項垂れ、佐知子は奥に引っ込んでいった。私よりも妻のほうが、人間ドックを受けるべきかもしれない。

 朝の支度に手間取ったため、遅刻寸前に大学についた。
 最初がつまづくと後にも響くのか、論文は進まなかった。舌打ちしてテレビをつけると、交通事故のつまらないニュースをやっていた。
 講義だけをそつなく終えて、他の仕事はあまり進展のないまま、私は寄り道せずに帰途についた。佐知子の奴は大丈夫だろうかと、柄にもなく妻の心配をしながら。
 帰宅すると、佐知子はいつもの通りだった。手早くはないが、それなりに手の込んだ料理を並べていく。
「もう大丈夫なのか?」
「はい。迷惑をかけて、すみません」
「べつに迷惑というほどではないがな。具合が悪いなら、医者に行っておけよ。いい大人が健康管理もできないようでは――」
 会話は、電話の音で中断された。私は食事を続け、佐知子が立ち上がって電話を取る。
「あなた。××会社の××さんから」
 それは、私のカーナビプログラムを商品化した会社だった。私が変わると、担当者の興奮した声が聞こえてきた。
「神原先生! どうしてくれるんですか。あなたのプログラムは、欠陥品じゃないですか!」
「なんだって?」
 いきなり作品を罵られ、私は怒るよりも面食らった。
「システムに致命的なバグがあったんですよ! おかげで、あのカーナビの通りに運転していた人が、事故を起こした!」
 担当者は、昼間の交通事故ニュースのことをまくしたてた。なんとあれは、私が開発したカーナビを使っていた車だったのか。
「待てよ。確認したが、バグは無かったぞ」
「複雑なプログラムで、一見すると分かりません。私らも騙されました。事故が起こってよくよく分析してみると……」
 担当者は、バグのあったコードを述べた。
「そんな馬鹿な」
「実際、こうして事故が起こってんですからね。どうしてくれるんですか! 商品を全部、回収しなきゃならない。えらい損害だ。あとで文書にして、先生に賠償請求させてもらいますからね!」
「なんだと! 冗談じゃないぞ、おい……」
 叩きつけるように、電話が切れた。
「あなた、どうしたの?」
 ただ事でない気配を感じたのか、佐知子が不安そうに訊く。
「なんでもない、おまえに言っても分からんことだ」
 私は妻を押しのけ、食事を放り出して、書斎に入った。パソコンを立ち上げ、カーナビプログラムを分析する。
 馬鹿な、俺が作ったものに、欠陥があるわけがない。この俺が散々見直して、バグが無かったんだぞ。私は、問題のコードに目を走らせた。
 おかしい所はなかった。

  後日、××会社から、損害を請求する書類が届いた。ふざけやがって。私は請求書を破り捨てそうになるのを、押さえた。××会社はあくまでも私のプログラム に欠陥があったと言い張り、裁判も辞さない構えだ。天才の作ったプログラムにバグがあるわけないだろう、人のせいにしやがって。
 佐知子などすっかり狼狽えてしまって、示談で解決しましょうなどと言っている。馬鹿、こちらに非がないのに、どうして示談なんか応じなきゃならん。裁判なんぞ起こしても、負けるのは向こうだ。俺のプログラムは完璧なんだ。

 休日。自宅に意外な客が来た。
「細木!?」
 私は飛び上がった。なんでこのうすらデブ野郎が、俺の家にノコノコ現れたんだ!
「何の用だ、貴様! 何しに来た?」
 仰天する私に、細木は肉に埋もれた小さな目を瞬いた。
「はあ。あのう、お呼ばれしてこちらに伺ったんですけど……」
 なに? 誰がこんな男を呼ぶものか。私が驚いていると、佐知子がパタパタとやって来た。
「すみません、お忙しいところ」
 そう言って、細木を中に招き入れる。なんと佐知子が、このデブを呼んだのか。
「どういうことだ、佐知子。こんな奴家に入れやがって」
「ちょっと、例のプログラムの件、細木さんに見ていただこうと思って……」
 なんだと?
「細木が見たって分かるもんか。第一、あれに欠陥はない」
「違う人の目で見たら、新しい発見があるかもしれないわ。細木さんは数学の助教授、専門家でいらっしゃるし」
 いそいそと、細木を中に案内する。何考えてるんだ。妻の勝手な行いに、私は唖然となった。細木はのそのそ、佐知子に続いて書斎に入った。
 細木がパソコンの電源を入れた。
「勝手に触るな」
 細木は、肩をすくめて佐知子を見た。文句があるなら女房に言えという仕草。私は佐知子を睨んだ。佐知子は睫を伏せていた。
 佐知子め。裁判沙汰によほど震え上がったのか。俺の作ったものに間違いがあるわけないだろう。この臆病女め。蒙昧な女だと分かっていたが、ここまでとは。
 私は内心で歯ぎしりし、細木が帰ったら佐知子を仕置きしてやろうと思った。
「これですか……はあ、すごいプログラムですね」
 ソースを開き、細木が感嘆した。当たり前だ、デブ。
「きれいなプログラムですけどね。どこにバグがあるんですか?」
 細木が不思議そうに首を捻る。
「ここだ。××会社が言うには、このコードがバグッてるんだと」
 私は問題の箇所を示した。
「これは……」
 細木の目が開いた。
「ああ、いけない。これは駄目ですよ、神原教授」
「なに?」
「だってほら、この構文――」
 細木が説明したが、私には分からなかった。
「どこが間違ってるんだ」
「だからここは――」
 細木がもう少し詳しく説明する。私はあっと声をあげた。
「あれ? そうなのか? そんな――いや、そうか。そうだな」
 細木の説明で、私はコードの矛盾に気づいた。なんてことだ、どうして今まで分からなかったんだろう。
「このプログラムは……バグだ。こんなカーナビで運転したら、道に迷う」
 私は呻いた。信じられない、こんな深刻なミスに、気づかなかったとは。何度も見たのに。どうして気づかなかったんだろう。細木に言われるまで分からないなんて。
「まあ、私も、ここにバグがあると分かっていなかったら、見落としていたと思います」
 細木が慰めるように言う。私は頭を抱えた。
 佐知子が、蒼白になって、私たちのやりとりを眺めていた。

 細木を帰した後、私はソファにぐったりと脱力していた。
「誰にでも間違いはあるわよ……」
 佐知子が肩に手を置く。私はその細い指を振り払った。
 私は、××会社に示談を申し出た。二千万円の賠償で片が付いた。払えない額ではないが、悔しい。出費よりも、自分が間違っていたということが、私を打ちのめした。

 第6節

 ピヨピヨ……
 もうすっかり、目覚ましの世話になっている。私はうんざりして起きあがった。

 論文が進まない。名誉挽回のためにも、良い論文を書き上げなければならないのに。
 私は、書きかけの論文をじっと見つめた。
 この数式、合ってるんだろうか。カーナビの件以来、どうも自信が持てない。相当凹んでいるようだ。
「……」
 私は呆然と、自分が書いた数式を見つめた。
 分からない。
 馬鹿な。私は愕然となった。自分が書いたものが解けないなんて、そんな妙な話があるか。気のせいだ、疲れてるんだ。ちょっと考えれば解けるはずだ……。
 私は数式を凝視した。
 一分……二分……五分……十分……。
 時計の分針が一回転したが、私はまだ数式に張り付いていた。
 嘘だろ。
 冷たいものが、背中を走った。前も、数式が一瞬分からなかったことがあったが、考えればちゃんと解けた。当たり前だ、自分で書いたんだから。
 だが今、私は、他人が書いたもののように、己の数式を眺めていた。全部の数式が分からないわけではないが、虫食いのように、どうしても解けない式が散らばっている。
 どうなってるんだ?
「細木」
 私は助教授を振り返った。
「なんでしょう」
 細木はいそいそ寄ってきた。私は書きかけの論文を彼に見せた。
「いや、相変わらず素晴らしい論文ですね」
「お追従はいい。数式や論理の展開に、間違いはないか?」
 細木は小さな目をパチクリさせた。傲慢な若い上司が部下に確認を求めることに、驚いているのだろう。そう、今まで、細木に論文を検証させるなんて、考えたこともなかった。そんな必要は微塵も無かったのだ。まさかまさか、細木なぞに確認を頼むとは……。
 細木は、唸りながら論文を見ていた。パソコンに数式を打ち込んで、論理を追っていく。
「ミスはないですよ。まだ完成していないけれど、完璧な理論を展開しています」
「そうか……」
 私は息を吐いた。
 ミスがないのは嬉しい。だが……。
 どうにもおかしい。カーナビの比じゃない。こんな不可解なことははじめてだ。
 大丈夫か、俺。しっかりしろ……。

 打ちひしがれながら、私はキャンパスに出た。今日はとても、論文など書けそうにない。
「……おや」
 私は足を止めた。木立の向こうに、見知った細い影がよぎった。
 佐知子だ。
 どうしたんだろう、佐知子が大学に来るなんて。彼女は、医学部のほうに消えていった。私はますます当惑した。佐知子が医学部に何の用だ?
 追いかけて声をかけようかと迷ったが、職場で女房と話すのも気恥ずかしく、やめた。

「おかえりなさい」
 帰宅した私を出迎えた佐知子は、心なしか顔色が悪かった。
「おまえどこか悪いのか?」
 私の唐突な問いに、佐知子はキョトンとなった。
「なんですか」
「おまえ、今日大学の医学部に来ただろう」
 すると、佐知子の顔色がさっと変わった。
「どうした?」
「いえ。別に」
 佐知子は目をそらした。
「どうしたんだ、何か隠してるのか? なにか、ひどい病気なのか?」
「なにも。なにも」
 佐知子は首を振るばかりだった。
「隠すなよ。どうしたっていうんだ。そんなに深刻な病気なのか」
 妻は、何かひどい病魔におかされているのだろうか。私の知らぬうちに。癌。白血病。そんな不治の病の名前が、脳裏にひらめく。まさかそんな致命的な病気に、妻が?
「大丈夫か? なあ。大丈夫なのか?」
 医学は埒外だ。私はただ、馬鹿のように狼狽えた。この女がいなくなってしまったら。私の後をついてくるのが当たり前だった妻。振り返って、佐知子がいなくなっていたら。
 いやだ。いなくなるな。
「あなた。苦しい」
 気がつくと、私は妻にしがみつくように抱きしめていた。私は驚いて腕を緩めた。
「ふふ……強い力ね……」
 佐知子が微笑む。
「心配してくださったの? ありがとう……」
 佐知子は、医学部に行ったのは妊娠の検査を受けるためだと言った。妊娠。私は妻の引き締まったウエストに目を落とした。
「残念だけど、妊娠はしてないって」
「そうか……」
 私は息を吐いた。なんとなく、私も残念なような気になった。
「夕食の支度をしますね」
 佐知子はキッチンに立った。料理を並べ、はしゃぐようにとりとめなく話す。私が心配したのが、よほど嬉しかったようだ。私は恥ずかしく、気まずくてたまらなかった。まったく、早とちりをした。死なないでくれと妻にしがみつくなんて、醜態だ。
 私は、愛情表現は苦手だ。公衆の前でいちゃついている若い恋人たちを見ると、どれも阿呆に見える。鼻の下を伸ばしてデレデレしている男など、まったくだらしなくて見ていられない。
 しかし……。私はむっつりと黙りながら、チラと佐知子を一瞥した。
 のろまで従順な妻。苛立つことも多い。不満な点もある。だが私は、心底ではこの女を愛しているのだろう。先ほどの醜態で、私は恥ずかしさの中にも、妻へ の愛情を自覚した。愛なんて、不条理で訳の分からないもの、数学者にあるまじき感情だ。さすがの私も、この思いを数式で解明することは出来ない。
 子供。
 佐知子との子供なら、欲しいかもしれない。子供なんて不条理の固まりだが、佐知子との子供なら、多少の騒音や不条理も、笑って流せるような気がする。
 子供が欲しい。
 妻への愛を自覚すると、その結晶である子供が欲しい気持ちが、私のなかで高まった。
 食事が終わると、私は佐知子をベッドに誘った。
 佐知子はやはりベッドでは消極的だったが、私は性欲を満たすためではなく、愛を満たすために、妻を抱いた。

 夜中。尿意で目が覚めた。
 傍らには優しい温もりがあり、佐知子が柔らかく寝息を立てていた。闇のなか白く浮かぶ妻の寝顔をしばらく見つめ、私は佐知子を起こさないよう、そろそろと起きあがった。
 寝室を出、トイレに入ろうとした時。トイレの明かりに反射して、何か居間で光った。なんだろう? あんな所に、反射する物など置いていただろうか。
 放って置いても良かったのだが、自宅に知らない物があるというのが私は気になり、そこを探ってみた。
 昼間なら気づかないであろう、隠すようにあったそれは、ピルの小瓶だった。

 第7節

 どういうことだ。やや荒く車を運転しながら、私の心中は不審で一杯だった。
 佐知子め、子供が欲しいなどと言いながら、ピルを飲んでいたのか。どういうつもりなんだ。
 妻の言動の矛盾への不審はもちろんのこと、彼女に裏切られたような気になった。せっかく私も、子供が欲しい気になったのに、佐知子は私の気持ちを裏切ったのか。
 女心の気まぐれでは済まされない。愛を裏切られたような気がして、私は腹が立った。
「センセー、おはよーございまぁす」
 ユミの鼻にかかったような甘えた声が聞こえた。

「あああん! ああああああん!」
 ユミは、赤ん坊の泣き声のような盛大な鳴き声をあげた。みずから腰を振り、どん欲に快楽を求める。思ったとおり、セックスを楽しむ女だ。
 ちょっと誘うと、ユミはあっさりついてきた。待ちかまえていたような感さえあった。教職にありながら学生に手を出す罪悪感はあまりなかった。ユミが尻軽なせいもあるが、妻への怒りも大きかった。
 ユミを抱くのは、妻への復讐のようなものだった。
「ユミ、こんなリッチなホテルでこんな気持ちいいエッチはじめてぇ……」
 私以上に楽しんだらしいユミが、満足したように寄りかかってきた。
「優さん、ステキ……」
 ユミが妻と同じ呼び方をしたので、途端に私は興ざめした。
「やめろ。優さんなんて言うな」
 センセーからいきなり優さんか。馴れ馴れしい女だ。
「んじゃあ、なんて呼べばいいのぅ? 優?」
 目上の男を呼び捨てか。
「先生と言え」
「そんなの、他人行儀じゃなぁい?」
「他人なんだよ」
「優さんてば、超クールゥ。もう他人じゃないじゃない、私たちぃ」
「優さんと言うな!」
 この女に優さんなどと呼ばれると、虫唾がする。抱いてはみたものの、やはりこの女は嫌いだった。

「神原教授」
 大学の廊下を歩いていると、白衣の男に呼び止められた。医学部の医者だ。
「何ですか?」
 私は怪訝に、男を見返した。同じ大学に勤めているとはいえ、医学部と数学に接点はあまりない。医者は周囲を見回した。誰もいない。
「あの、人間ドックの件なんですが。再検査を受けていただけませんか」
 男の耳打ちに、私は目を丸くした。
「再検査?」
 どこか悪い所でもあったのか。驚く私に、医者は言った。
「たいしたことじゃないんですが、一応確認しておきたいんです。ご都合のよろしい日は……」

 何だというのか。健康診断で再検査に引っかかるなど、二十七年生きてきてはじめてだ。節制と健康には自信がある。どこも痛くも痒くもないのに、どうしたというのだろう。
 帰宅した私は、首を傾げながら、先日の人間ドックの結果を探した。
「あなた、どうなさったの」
 あちこちひっくり返す私に、佐知子が驚きの声をあげる。
「前受けた人間ドックの結果は、どこにあるんだ?」
 佐知子の表情が、一瞬、変わった。
「どうしたんですか。もうシュレッダーにかけて破棄しましたよ」
 佐知子は表情を戻して言った。
「なに?」
 下段の引き出しを探っていた私は、立ち上がった。
「捨てただと? どうして?」
「どうなさったんです。検査結果に問題は無かったので、邪魔になるから捨てたんですよ」
「問題ない? 嘘をつけ。医者に再検査を受けろと言われたぞ」
「……っ」
 佐知子が息をのんだ。
「検査結果をどこにやった? 本当に捨てたのか? どんな結果が書いてあったんだ?」
「なんでも……なんでも、無かったわ。心配しすぎよ、あなたも医者も」
 佐知子は目を泳がせた。嘘のつけない女だ。私は不安になった。
「おい……俺は、何か病気なのか? 先日おまえが医学部に行ったのは、自分のことではなく、俺のことだったのか?」
「いいえ。いいえ」
 佐知子は首を振った。いくら問いつめても、妻は首を振るばかりだった。

 再検査を受けたが、医者からは何も言われなかった。
 本当に、たいしたことは無かったのだろうか。それとも、告知できないような深刻な病気なのだろうか。
 不安な日々が流れる。
「優さぁん」
 鼻にかかった声。振り返ると、ユミがしなをつくってにじり寄ってきた。このバカ女、白昼の大学で優さんなんて馴れ馴れしく呼びやがって。
「最近、ユミにかまってくれないねぇ。ユミ、寂しいなあ」
 すり寄ってくる。私は身を引いた。
「ああん、冷たぁい。ユミを可愛がってくれたのは、何だったのぉ?」
 ユミが、だんだんと声を張り上げる。
「バカ、こんな所でそんなことを言うな」
「優しくしてよぉ。冷たくすると、ユミ、叫んじゃうんだからぁ。ユミは神原センセーとエッチしましたぁって、皆に聞こえるよーに叫んじゃう」
「やめろ、冗談じゃない」
「だったらぁ、優しくしてネ? ユミ、甘えん坊でさみしがりなんだからぁ。ユミね、欲しいモノいっぱいあるしぃ、リッチなホテルとかぁ、大好きなのぉ」
 物欲しそうな目で、私を見上げる。たちの悪い女をひっかけてしまったようだ。
「……分かった。じゃあ、ちょっと特別なホテルに行こうか」

 尻尾をふって私についてきたユミは、海が見渡せる高級ホテルの最上階スイートルームに、大はしゃぎだった。
「スゴーイ! 並のボーイフレンドじゃあ、こんなトコ連れてきてもらえないよぉ。やっぱり男は、お金持ちがいいよねぇ」
 トランポリンのように、ベッドの上ではねまわる。ここは一泊百五十万する部屋だが、それだけにサービスは行き届いている。このバカ女との手切れ金だと思えば、高い金ではない。
「優さん、サイコー。もうユミ、離れないよぉ」
 金蔓は離さないとばかり、ユミがしがみついてきた。毒々しいマニキュアを塗ったその手に、私は手錠をかけた。
「ほえ?」
 一拍遅れて、ユミが驚いた顔をした。
「何これぇ?」
「見て分からんか。手錠だ」
「なんで、手錠なんてかけるのぉ?」
「楽しむために決まってるだろう」
「優さんて、そーゆー趣味?」
「そういう趣味だ」
 言って、私はユミの腹に蹴りをくれた。
「ぐへっ」
 ユミはカエルのような無様な悲鳴をあげた。
「ごほっげへっ……何すんのよ!」
「おや、いつもの語尾を伸ばしたバカ口調じゃなくなったな」
 私はユミの脱色した髪を掴んで引き上げた。痛んだ髪が何本も千切れた。
「痛い」
「痛がれ。俺は、女を虐めるのが好きなんだ」
 ユミは目を剥いて私を見返した。
「サド……?」
「そうだよ。女が痛がってくれないと、興奮しない」
 もちろんそんな変態趣味はないが、私はユミを怖がらせた。こういう女は甘やかせばつけあがるし、別れようとしたら脅してくる。こんな女の扱いは、サディスティック過剰なくらいでちょうどいいのだ。
「安心しろよ、顔や手といった見えるところは傷つけない。いくら淫乱なおまえでも普通見せられないような恥ずかしいところに、俺の所有物だって刻印を刻んでやるよ」
「ウソ……冗談でしょ?」
 私は笑って、もう一回、女の腹を蹴り上げた。ユミは咳き込み、転がった。
「いや……いや、助けて!」
「いくら叫んだって、悲鳴は漏れないよ。百五十万かけて、プライバシーを守ってくれる」
 私は、怯えるユミに馬乗りになった。

 第8節

 ユミがまとわりつかなくなったのは清々したが、私の悩みはなくなったわけではない。
 学会が迫っているのに、論文は進まない。
 講義で、学生に間違いを指摘された。
 まったく、調子がおかしい。病気のせいか。ストレスのせいか。
 こんなハッキリしない状態は、嫌になる。病気でなくても病気になりそうだ。
 もういい。たとえ癌だと言われても驚かないから、白黒つけてくれ。病気なのか、そうでないのか。
 私は本調子に戻れないまま、イライラと過ごした。
「優さんは、完璧主義だから。気を張りすぎなのよ。旅行にでも行かない?」
 佐知子がなだめるように言った。
「旅行? 何言ってるんだ、そんな暇あるものか。論文が出来ないのに、学会が近いんだ」
「……学会が終わったら、旅行に行きましょう」
 大人しい佐知子が、このように出かけたがるのは珍しい。だが私は、旅行などよりも、目の前に迫った学会と、スムーズに流れない日常の仕事のことで一杯だった。妻と付き合っている暇はない。
「仕事、仕事、仕事……優さん。いつもそんなだと、疲れませんか?」
 佐知子が、どこか哀れむような目で言った。
「仕事はもちろん大切だけれど、人生にはもっと楽しみや余裕があってもいいと思うわ」
「ふん。家のなかのことしかしない主婦には、働く男のことなんて、分からないだろうさ」
 私は鼻を鳴らし、佐知子は肩をすくめた。

 定時を過ぎても、私は仕事が片づかず、数式に張り付いていた。横では、すでに自分の仕事を終えた細木が、私につきあって残っている。
「細木くん、いいよ。先に帰ってくれ。君が横にいても、何にもならない」
「はあ……失礼します」
 細木は頭を下げ下げ、帰っていった。私はため息をついた。
 なんという体たらくだ。細木よりも要領が悪くなってしまったとは。私は頭を抱えた。本当に病気なんじゃないだろうか。どこも痛くないし体の不調はないが、どうにも頭の働きが鈍っていくようだ。医学部からはその後何の音沙汰もないし、佐知子も何も言わないが……。
 九時になり、警備員から閉め出された。

 外は、もうすっかり暗い。私はメルセデスを発進させた。
 大学を出て、公道を走る。赤信号にぶつかった。止まっていると、しばらくして後方から小さくクラクションが鳴らされた。何だって言うんだ。見ると、信号は赤だが右折の矢印が出ていた。私は慌てて、車を発進させた。
 どうしたんだろう、標識を見落とすなんて。私は軽く頭を叩き、運転を続けた。
 工事をしているのが前方に見えた。ここ、工事なんかしていたのか。看板が出ていたはずだが、気がつかなかった。どうも、注意力が散漫だ。私は気を引き締めた。
 慎重に運転していたつもりだったが、私は直前まで、見通しのよい交差点で、歩行者が横断してくるのに気づかなかった。私は慌ててブレーキを踏み、ハンドルを切った。車がスリップした。

「あなた!」
 佐知子が蒼白になって、病院に駆けつけてきた。
 私は、警察の聴取を終えて、保険屋と相談している所だった。幸い人身事故は起こさずに済んだが、メルセデスは電柱にぶつけてひしゃげてしまった。私も軽い打ち身を負った。
 しかし私は、車の修理や怪我よりも、別のことが気になっていた。
「良かった……無事だったのね」
 私がたいした怪我ではなかったので、佐知子は胸を撫で下ろした。私は保険屋を下がらせ、妻をじっと見つめた。
「佐知子」
 私は低く、妻を呼んだ。私の重い表情に、佐知子は少し戸惑いの色を浮かべた。
「? なに?」
「俺は、何の病気なんだ?」
「……」
 佐知子は一瞬、息をのんだ。
「どうしたの、あなた……」
「もう、ごまかすのはやめろ! 分かってるんだ。ハッキリ言ってくれ」
 今日の事故は、疲れていたとか偶然とか、そういうものではない。運転に支障をきたすほど、私は散漫になっていたのだ。兆候は、カーナビプログラムから始まっていた。
 私の意識は、低下してきている。
「今回は幸い、自損事故のすり傷で済んだが、一歩間違えば死んでいたかもしれないんだ。本当のことを教えてくれ」
「……」
 佐知子は立ちつくした。私は妻を見つめた。沈黙。佐知子は観念したように、俯いた。
「……あなたの病気は、先天性アンダーソン氏脳病よ」

 第9節

 先天性アンダーソン氏脳病? なんだそれは。脳病だと? 先天性?
 俺が、生まれつきの脳の病気だというのか?
 佐知子の言葉は、私のどんな予想も越えていた。
「今年になって発見された遺伝病だそうよ……」
「遺伝病!? 馬鹿な、俺の遺伝子に異常があるっていうのか?」
 信じられない。わざわざ高い金を出して精子銀行から買った優秀な遺伝子から生まれたのが、この俺だぞ。先天性の脳病なんて、もっとも俺から縁遠いものではないか。
「白人に多く見られる珍しい病気で、三十歳前後に発病、知能が低下し、痴呆――」
 衝撃的な単語が、俺の中を突き抜けていく。
 先天性。白人の病気。知能低下。痴呆。
「嘘……嘘だ……」
 頭を抱える。嘘だ。俺の父親は、脳病の遺伝子を持っていたというのか? 三千万円の天才の精子が、脳病を抱えていたというのか? 優秀なはずの精子が。
 立っていられず、俺は膝をついた。
「二十七年前には、まだ発見されていなかった病気よ……」
 打ちひしがれる俺に、佐知子の声が落ちる。
 なんてことだ。
 優秀なはずの精子が、とんでもない欠陥品だった。それはつまり、俺自身が欠陥品だったということだ。完璧の美が砕ける音が聞こえた。
 遺伝病だったというだけでも十分にうち砕かれたが、さらに俺を打ちのめしたのは、それがよりにもよって脳病だったということだ。
 脳病。
 佐知子は何と言った? 知能が低下し、痴呆になるだと?
 痴呆? バカになるっていうのか? この俺が?
 才能溢れる若き天才数学者が、バカになるだと? どっかの隔離施設に監禁された狂人のように、幼稚園のガキのように、訳の分からないことを泣きわめいてヘラヘラ笑うっていうのか?
 恐怖を通り越して、気絶しそうになった。
 嫌だ。いや。いや。そんなのは嫌。知性を失うのだけは、耐えられない。
「な、治るんだろ?」
 俺は立ち上がる力もなく、膝立ちのまま、佐知子にすがりついた。
「治るんだよな? 治療法はあるんだよな?」
 佐知子は、悲しそうに俺を見下ろしている。
「なんで、黙ってるんだよ? 治るって言えよ……大丈夫だって……」
「……」
「佐知子!」
「……治らないの」
 目の前が暗くなり、意識がスウッと沈んでいった。

 気がつくと、白い天井が目に入った。
 病室。
 なんでこんな所にいるんだ。一瞬戸惑い、思い出す。そうだ俺は事故を起こした。そして……。
 脳病。
 くらり、頭痛と目眩がした。
「あなた」
 佐知子が、赤い目で俺の傍らに座っていた。ずっと起きて、側にいたらしい。
「佐知子……」
 俺は起きあがった。打ち身が痛んだが、それよりも心のほうが痛かった。
「俺は、病気なのか……脳の……」
 訊くと、佐知子は小さく頷いた。
「……」
 言葉が出ない。ただ、肺から絞るような息が漏れた。さすがに二度の気絶はなかったが、俺は絶望の底に沈んだ。

 先天性アンダーソン氏脳病は、今年になってアメリカ人医師アンダーソンによって発見された病気で、白色人種に固有の某遺伝子に特定の異常があると発症することが分かっている他は、治療法も原因も何も解明されていないという。
 舞踏病のようなものだ。検査によって発症するかどうかは分かるが、それだけで、治療法はない。検査を受けて、病因がなければいいが、もしあったら、患者は絶望のどん底に落とされる。
 なんのための検査だ。なんのための。
 治らないのに、発症して悪くなるだけなのに、将来病気になることだけが分かって、どうなる。発症の恐怖に怯えながら、その時を待てというのか。まるで死刑宣告だ。
 先天性アンダーソン氏脳病の症状は、発病まではごく健常に成長し、早ければ二十四、五、遅くとも三十三、四歳までに発症、発症したが最後、知能は日々減退、白痴となりはて、長い余生を過ごす。
 なんてことだ。最悪だ。それならいっそ死ねればいいのに、壊れるのは頭だけ、体は影響ないらしい。俺の脳裏に、阿呆になっていつまでも生きている己の姿が浮かんだ。
 吐きそうだ。
 こんなひどいことが自分の身に降りかかるなんて。どうして俺なんだ。俺は天才のはずなのに。
 嘘だ、嫌だ、信じたくない、悪夢だ。
 夢ならいい。目が覚めて、すべてのことが夢であってくれたらいい……。

 ピヨピヨピヨ……
 俺の願いも空しく、今朝も目覚ましが鳴っている。まるで俺をあざ笑うかのように。
 オマエ、モウ、自力デ起キラレナイ。オマエ、バカニナル。バーカ、バーカ……
「うるさい!」
 俺は目覚ましを投げつけた。壁に穴が開き、目覚ましが砕けて落ちる。
「キャア」
 騒音に、佐知子が飛び上がった。
「どうしたの?」
 佐知子が驚いて駆けつけてきた。ぶち壊れた時計に、目を丸くする。
「何があったの? 目覚まし、滅茶苦茶じゃない。どうしたの?」
「うるさい、片付けておけ!」
 怒鳴りつけ、俺は乱暴な動作で、朝支度をした。一階に下り、車に乗ろうとすると、佐知子が止めた。
「あなた、車は、もう――」
 そうだ、俺は事故ったのだ。車の運転は、危ない。
「くそっ」
 俺は力任せに、クラウンのドアを閉めた。その音に、佐知子が肩を縮める。
「あの、私、運転免許取るわ。あなたの送り迎えを……」
「おまえみたいなトロい女、運転なんか出来るもんか!」
 妻に八つ当たりをし、駅に向かって歩きかける。すると、佐知子が並んで歩いた。
「なんだ、おまえ。出かけるのか」
「駅まで送って……」
「なに?」
 頭に血が上り、俺は佐知子を突き飛ばした。
「馬鹿にするなよ! 一人で駅にくらい、行ける!」
 佐知子は息をのみ、ごめんなさいと頭を下げた。俺は佐知子を振り返らず、大股に歩き出した。
 普段は車を使っているので、駅など滅多に行くことはなかったが、俺は迷わず最寄り駅に着いた。
 まだ大丈夫。俺はまだ、大丈夫だ……。
 券売機に並び、路線図を睨みながら、料金を払って切符を買う。すし詰め列車に揺られ、乗換駅で下りる。また列車の人混みに揉まれ、目的駅で下りた。
 どうだ。大丈夫じゃないか。大学に着いたぞ。
 研究室まで、迷い無く進む。
「おはようございます、神原教授」
 細木が挨拶した。
「大変でしたね。大丈夫ですか?」
「なんだ!?」
 俺は目を剥いた。
「大丈夫に決まってるだろ! なんでおまえにそんなこと言われなきゃいけないんだ! 余計なお世話だ! なんで俺の病気のこと知ってんだ、貴様」
「どうしたんですか」
 細木はキョトンとなった。
「病気って、なんのことです。どこかお悪いんですか?」
 よく聞いてみると細木が言っているのは、交通事故のことだった。なんだ……。俺は汗を拭った。
「教授。病気って……」
「うるさい、何でもない」
 不審げな細木を無視し、俺は講義の準備をした。といっても、講義は二時間も先のことだが。
「教授。論文は執筆されないんですか」
 細木が少し焦ったように訊ねた。学会は、明後日だ。だがもう、今の俺には、論文なんて書けない。
 おお。俺は今更、自分の窮状を知った。論文が書けないのでは、学者としてもうおしまいだ。俺はもう、どんな学説も発表できない……。
「教授?」
 細木が覗き込む。俺は我に返った。
「論文は、間に合いそうにない。学会は、欠席する」
「えええ?」
 もう関係各位のスケジュールは決まっているのに、今更どうするんですか。細木の声を背に、俺は部屋を出た。
 キャンパスに出、講義が始まるまでの間、大学の建物を眺める。
 大学。学びや。ああ、俺はもう、そのうちに、ここを追い出される。学者失格、教職も追われる。
 ただ失業するというだけではない衝撃が、俺を襲った。職を失っても、喰うには困らない。特許料や貯金がある。俺を打ちのめすのは、収入のことじゃない。
 学徒として半生を生きた俺が、学びやを追われるのだ。家を失うのに等しい。
「教授、おはようございます」
 立ちつくす俺に、学生が会釈する。俺はただ呆然となっていた。学生らの中には、無言で通り過ぎるユミの顔もあった。

 講義の時間になり、俺は教壇に立った。
 論文は書けなくなった、学問の開拓は出来なくなったが、まだ教鞭は振るえる。俺はまだ、「教授」だ。学徒の端くれだ――そう思いながら、テキストを開く。
 がく然となった。
 テキストに書いてあることが、さっぱり分からなかった。

 第10節

 あったかい布団。幸せなまどろみ。
 気持ちいいな。ずっとこのまま、何も考えずに寝ていたい。
 ゆさゆさゆさ。
 せっかく人が気持ちよく寝てるのに、誰かがゆらす。
 分かってる。お母さんだ。
 お母さんはいつも、ぼくが気持ちよく寝てると、起こすんだ。
 勉強しなさいって言うんだ。
 うるさいなあ。
 毎日、同じことばっかり。一回くらい、思い切り寝させてよ。
 ゆさゆさゆさ。
 ホラ起きなさいいつまで寝てるの寝てるヒマなんかないのアンタには勉強して勉強して勉強して偉くなってもらわなくちゃならないんだからホラ起きて勉強して出世して私に楽な生活をさせてよ――
「うるさい!」
 俺は起きあがった。
 そこは、六畳一間の木造アパートではなかった。俺を揺らすのも、働きづくめの痩せこけた母親ではなかった。
 ゆったり広い寝室、若くみずみずしい妻。
「……佐知子」
 俺を揺り起こしたのは、佐知子らしい。
「時間ですよ」
 目覚ましを壊してしまったので、佐知子が起こしてくれたのか。おかげで母親のことを思いだし、俺はため息をついた。そういえば、俺が自分で起きるようになったのは、母親がうるさいからだった……。
「遅れますよ」
 佐知子がやんわりと促す。俺はまた、ため息をついた。
「いいんだ。もう、大学には行かなくても」
「今日は、休校日ですか?」
「辞めたんだ」
 佐知子は息をのみ、次いでまつげを落とした。
「……そうですか」
「そういうわけだから、俺はまた寝る。しばらく放っておいてくれ」
 俺は再び、ベッドにもぐりこんだ。一度目がさめて、もう眠気はあまりなかったが、眠りたかった。
 眠りたい。何もかも忘れて、眠りたい。

 目をさますと、昼になっていた。
 寝過ぎてかえって頭が重い。俺はのろのろ、起きあがった。
 静かだ。
「佐知子?」
 返事はない。出かけたのか。
 腹が減った。俺はキッチンに向かった。そこには料理が用意されていた。
「あいつにしては、気がきくじゃないか」
 妻の用意に感心しながら、俺はブランチを口に運んだ。
 カチカチカチ。一人でいると、時計の音だけがいやに大きく響く。
 カチカチカチ。それはまるで、命を刻む音のよう。
 カチカチカチ。カチカチカチ。
「……ひぃ」
 俺は耳をふさいだ。怖い。カチカチと、病気が進んでいくような気がする。
 これから、俺は、どうなるんだろう。どうなっちまうんだろう。
 車を運転できなくなった。人にものを教えられなくなった。
 昨日は出来たことが、どんどん出来なくなっていく。
 怖い。どうなっちまうんだろう。
 俺は、神原優。IQ190の知能でもって、人生を重ねてきた。知性は俺に成功と富をもたらし、幸福を授けた。傲慢なまでの自信もそれを裏付ける才能も、 知能があったればこそだ。凡人にとっても知性を失うのは耐え難いだろうが、ましてや俺は天才なのだ。俺にとって、知性はアイデンティティと同じだ。
 それを失う。
 白痴になったら、俺は俺でなくなる。
 死ぬ。知性を失ったら、神原優は死んでしまう。体は生きていても、神原優という存在は死ぬ。
 カチカチカチ。カチカチカチ。
 ――わたしもうぢき駄目になる
 そう言ったのは、誰だったか。
 智恵子抄だ。彫刻家詩人高村光太郎の妻、智恵子だ。精神を病んで死んでいった女だ。

 半ば狂へる妻は草を藉いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる

 智恵子は分かっていたんだろうか。自分がこわれていくこと。死んでいくこと。
 俺も、もうじき駄目になる。
 ふらり、俺は立ち上がった。
 調理台に向かう。包丁。
 もうじき駄目になる。駄目になる。
 包丁を握る。
 これを使えば、駄目になる前に、終われる。
 手首に、ゆっくり刃をあてがう。痛みと、温かい、血。ぼたぼた、ぼたぼた。
 カチカチカチ。カチカチカチ。
 ぼたぼた、ぼたぼた。
 さっき起きたばかりなのに、また眠くなってきた。
 おやすみなさい、さようなら。もう、おれ起きないよ、母さん。

 第11節

 白い天井だ。
 病室。どこかで見たような場面だ。また事故を起こしたんだろうか。
 違う。死に損ねたのだ。
「……気がついた?」
 低い声。顔を向けると、佐知子がおれを見下ろしていた。目が赤いのは前と同じだが、前と違って般若のような形相をしていた。
 妻のこんな表情ははじめて見る。おれは驚いた。
「あなたがここまで勝手な人だとは、思わなかった」
 怒気を含んだ低い声で、佐知子は言った。
「佐知子?」
「勝手な人。わがままな人。一人で絶望して、一人で自殺をはかって。自分のことばっかり。弱虫」
 なんだ? 大人しい妻の非難に、おれは面食らった。
「どうしたんだ、佐知子」
「甘ったれたエゴイスト。情けない男。死んで楽になって、それでおしまい? 私や残された者のことは、どうでもいいのね。自分さえ良ければいいのね。しかも、自殺の理由が、痴呆への絶望とは。なんてスカスカな、中身のない奴なの」
「な……なんだ?」
 羊のように従順な佐知子の言葉とは思えない。
「おまえ、おれに向かってそんなこと言うのか。自分が何を言ってるか、分かってるのか。おまえに、おまえなんかに、おれの絶望が分かるのか」
「そんな弱虫の絶望なんか、分かりたくもない。知性を失って自殺。つまりあんたは、知能を取ったら、何も残らない男ってことね」
「なに……」
 怒りで、言葉がつまる。佐知子はさらに言った。
「スカスカじゃないなら、中身があるのなら、生きてみなさいよ! 普段威張っている十分の一でいいから、意地を見せてみなさいよ!」
 怒鳴り、佐知子は病室を出ていった。

 ちくしょう、佐知子の奴。大人しいだけの女かと思っていたら、死ぬほど苦しんだ病人に向かって、よくもああまで言えるものだ。
 佐知子が出ていった後、はらわたを煮やしながら、ベッドに丸まる。だが、怒りの底では、佐知子が正しいと分かっていた。
 手首を切った時、自分以外の何も考えられなかった。おれの後ろでずっと忍従してきた妻のことなど、一片も浮かばなかった。帰ってきた佐知子がおれの死体を見てどう思うかなんて、ちっとも考えが至らなかった。
 ただ怖かった。死んで逃げて、楽になりたかった。生きて壊れ続けていくよりも、死んで終わらせたほうが楽だった。
 弱い。身勝手。
 シャア。カーテンが開く。佐知子が戻ってきた。その細い手には、新品のナイフが握られていた。ナイフなんか買いに行っていたのか。
「……今度手首を切るときは、もっと深く思い切って切らないと、動脈まで届きませんよ」
 優しささえ感じられるほど穏やかな口調でそう言って、佐知子はナイフを差し出した。
 おれは言葉もなく、ナイフの鋭い刃を見つめた。
「そこまで、おれに愛想が尽きたのか?」
「……」
 佐知子は深い憐憫の眼差しで、おれを見返した。妻に哀れまれている。なんてことだろう。
「佐知子……」
 だがおれの口から出たのは、怒りの罵声ではなかった。
「おれ、どうしたらいい……?」
 怒声よりも、弱音が出た。
「どうしたらいい? このまま、おれ、どんどんバカになる。怖い。どうしたらいい? 何も出来なくなる、何も分からなくなる。こ、怖い。すごく怖い。怖くてたまらない」
「あなた……」
「怖い……助けて」
 おれは、佐知子の胸にすがって、泣いた。

 退院すると、新聞がたまっていた。
 世の中の動きはどうなったのだろう。整理がてら、見出しを拾い読んだ。世の中の動きに遅れたくなかった。
 おれの手から、新聞が落ちた。
『××大学細木助教授 ○○の定理を証明 数学界の革新』
 細木の名で発表されたそれは、おれが書きかけていた論文だった。

 第12節

「細木!」
 おれは大学に怒鳴り込んだ。研究室のネームプレートは「細木亮教授」となっていて、かつてのおれの場所に、細木の太い図体がのうのうと座っていた。
「おや、神原教授……いや、今は神原さんかな」
 細木が座ったまま、悠長な口調で言った。
「これはなんだ!?」
 おれは細木の団子鼻に、新聞を叩きつけた。
「何するんです、乱暴な人だなぁ」
 細木は目を白黒させて、新聞を拾い上げた。
「おや、ごらんになったんですか。ああ、これちょっと古い新聞だなあ。今の僕は助教授じゃなくて教授に――」
「おれの論文を盗みやがったな!」
 信じられない、この男、おれの研究を横取りして自分の手柄にしやがった。なんて野郎だ。
「なんですって? 人聞きの悪い」
 細木はそらっとぼけた。この野郎。怒髪にきて、おれは細木に飛びかかった。許せん。
「この盗人デブが! 人の研究を盗んで、いけしゃあしゃあと――」
「うるさい、いい加減にしろよ」
 つかみかかったおれを、細木は突き飛ばした。
「いくら病人でも、あんまり言いがかりをつけると、怒るよ」
「なんだと」
「あんたは神経症にかかって、大学を辞めたんだろう。可哀想に、頭が良すぎて壊れたか。人に妄想の言いがかりをつけるより、精神病院で教授ごっこでもしていたらどうだね」
「貴様……」
 怒りを通りこして、殺意が芽生えた。研究を盗んだうえに、侮辱するか。おれが上司だった頃は、卑屈に追従していたくせに。
「私があんたの研究を盗んだというなら――」
 細木はおれの鼻先に論文を突きつけた。
「この数式、解いてみてくださいよ。自分で書いたものなら、分かるでしょ?」
 そこには、今のおれには意味不明な暗号が並んでいた。
「どうした? 解けないのか? おかしいなぁ、天才の神原教授が、分からないなんて」
 細木のあざ笑いがひびく。おれは立ちつくした。

 ちくしょう……。
 論文を盗まれたのに、手も足も出ないとは。学問の治外法権だ。怒りばかり抱きながら、おれは歯ぎしりするしかなかった。
 ちくしょう……。ちくしょう……。
「……」
 おれは、ハタと立ち止まった。
 駅はどこだ?
 ……。
 ざあっと、血の気が引くのが、自分でも分かった。
 ウソだろ。帰り道が分からないなんて。行くことが出来たのに、帰ることが出来ないなんて、そんな馬鹿なことがあるのか?
 なんということ。また一歩、白痴化が進んだのか? 刻々、おれはバカになっていっているのか?
 駅が分からない。どうしよう。どうやって帰ろう。道に迷ったら、どうしたらいいんだっけ? えっと。えっと。分かんない。うわ。ウソ。二十七歳の迷子かよ?
 交番の看板が目に入った。
 そうだ、お巡りさんに訊けばいいんだ……おれはホッとして、交番に入った。
「駅ねぇ。ここからの最寄り駅はJRと各社私鉄とで四つあるけど、どれですか?」
「えっ……」
 絶句。四つもあるのか? どの駅を使ったっけ? 分からない。
「ええと。あの、何でもいいです。一番近い駅で」
 おれは駅への道順を教わり、地図をもらって、交番を出た。
 そしてたどり着いたのは、見たこともない駅だった。路線図を見る。自宅近くの駅名がない。あ、もうダメ、分からない――。
 しゃがみこむ。雨がふってきた。追い打ちをかけられたようで、泣きたくなってくる。カサを持った人が、駅から出てくる人を迎える……。
 そうだ、おれも迎えに来てもらおう。
 佐知子に、妻に迎えに来てもらう。屈じょくが走った。けれど、一時間もみじめにしゃがんでいると、屈じょくよりも不安が勝った。
 おれは電話した。佐知子は、すぐ行くと言った。
 佐知子が来るまで、おれはじっと待った。若い女が来るたびに、佐知子じゃないかと立ち上がる。ちがう、佐知子じゃない。あの女もこの女も、佐知子じゃない。
 待つ間、さみしくて不安で、心細くなってきた。なんて情けない。一人じゃ家にも帰れないなんて。幼児並だ。おれは、ガキのレベルまで落ちたのか。
 見覚えのある車が来た。クラウンか。家にあるのと同じだが、あれは佐知子じゃないだろう。
「優さん」
 クラウンから下りてきたのは、佐知子だった。おれはキョトンとなった。
「佐知子、おまえ、運転なんか出来たのか?」
「免許取りたてよ」
 佐知子は、少し得意そうに言った。
 おどろいた。佐知子が車に乗れるなんて。そういえば前、免許を取るとか言っていた。
「さあ、家に帰りましょう」
 佐知子がおれの手を取る。帰れる。途端、安心が広がって、なんだか涙がにじんだ。
「どうかしたの、あなた?」
「なんでもないやい」
 おれはあわてて、涙をぬぐった。

 第13節

 仕事がないと、することがない。
 退屈だと、頭がますます悪くなる気がする。
 まったくおれの生活は、仕事を中心に回っていたんだな。その仕事が出来なくなると、とたんに退屈になっちまう。しゅみも遊びも、ムズカシイことばかりだったもん。数学パズルとか、プログラムとか。もう、出来ない。
 退屈だな。頭が悪くなると、何も出来なくなっちゃうのかな。
 指の間から砂がぼろぼろ落ちるように、知識や能力が落ちていく。いやだ……暗くなる。
 なにかしなくては。せめて気晴らしでもしないと、やっていられない。
 テレビをつける。ワイドショーをやっていた。くだらないなと思ったが、他に出来ることもないので、眺めた。しかし、見てみると案外、おもしろかった。前 は全然、こんなの好きじゃなかったのに。新しい発見だ。おれの頭は落ちていく一方だと思っていたが、おもしろいと思えるものを見つけた。良かった。
 佐知子が立ち上がった。買い物に行くという。おれもついていこう。家にいてもヒマなんだ。
 車にのりこむ。佐知子が運転席で、おれが助手席。ヘンな感じだ。
 佐知子は免許取りたてだが、けっこう上手だ。とてもしんちょうな運転をする。性格がでているのかもしれない。
 佐知子の運転を見ながら、彼女を見直すと同時に、うらやましくなる。いいな、佐知子は運転できて。おれだって、前は自分で運転できたんだ。かっこいいメルセデスやクラウンに乗って、気ままに出かけていたんだ。
 スーパーに着いた。へえ、こんな所にスーパーがあったんだ。
 佐知子の後について、カートを押していく。佐知子はなんだかうれしそうだ。おれと買い物するのははじめてだって言う。そういや、そうだな。なんか照れくさくなってしまった。
 買い物なんて、女のすることだと思っていたのに……。けれどやってみると、妻の買い物につきあうのは、そう悪いものではなかった。
「あれーッ、センセーじゃん」
 甲高い声が店内にひびいた。
「げっ……」
 振り返ると、思わずうめき声が出た。ユミが立っていた。なんでこの女がここに。
「奥さんとお買い物ぉ? 仲良いんだぁ」
 なれなれしく声をかけてくる。佐知子が首をひねった。
「どなた……? 主人のお知り合い?」
「木之元ユミでぇす。××大学文学部でぇす」
「ああ、じゃあ、主人の――」
「行こう、佐知子。もう教え子でも何でもないんだ」
「冷たぁい。冷たくすると、ユミは叫ぶぞう。センセーとエッチしたって、叫ぶぞう」
「え……」
 佐知子がおどろいて立ち止まる。
「あの女、アタマおかしいんだよ。行こう」
「ケッ、頭おかしいのはそっちだろ。神経症のサド野郎」
 ユミの舌打ちが、背後で聞こえた。おれの仕打ちを恨んでいるようだ。おれもやりすぎたかもしれないが、ユミだって相当のタマだ。くそ、まったくたちの悪い女に手を出した。後悔したが、遅かった。
「奥さぁん、あんたの亭主、右タマの横っちょにぃ、チョンチョンってちっちゃい黒子二つあるよねぇ」
 ユミのとんでもない発言に、まわりの客がぎょっとして振り返る。佐知子が固まった。ユミがさらにわめく。
「そいでねぇ、このヒト、髪は黒いのにぃ、アッチの毛は栗毛なのー! エッチしたから知ってんだあ!」
 おれは飛び上がった。こんな所で関係を暴露して、おれの体のこと周知するなんて。
「キチガイか、おまえ! 白昼堂々、なんてこと大声でぬかしやがるんだ!」
「皆さーん! この男は、元大学教授で、学生にサド行為をして、神経症で大学辞めて、今失業中の変態でーす!」
 このクレイジー女!
「だまれ!」
 おれはユミに飛びかかった。首をしめあげる。店員があわてて止めた。ユミがせきこみながら逃げていく。
「ケケケッ! ざまーみろ! 女房に捨てられちまえ!」

 てんやわんやのさわぎ、おれはスーパー中の注目をあびて、店から追い出された。
 とんだ赤っ恥だ。恥どころか、佐知子に浮気を知られてしまった。
 佐知子が、青ざめた顔で、車を運転している。だまったまま、急ブレーキ、急ハンドル。おれは何度もシートに押しつけられた。
 帰宅すると、佐知子はモノも言わず、先に車を下りて玄関に立った。佐知子がこんなに怒ったのは、はじめてだ。
「佐知子」
 おれは佐知子の背に続いて、家に入った。
「ちがうんだ、あの女とは、浮気ですらない。金がある男なら誰でもいい尻軽で、売女みたいなもんだ。うさばらしに一度買っただけだ」
「……」
「悪かった。おまえがピルを飲んでるのを知って、おれとの子供を作りたくない、裏切られたと思ったんだ」
 おれははじめて、女房に頭を下げた。それでも佐知子は、だまっている。男が頭を下げたのに、許さない気か。そりゃ、妻をさしおいて若い女と寝たのはいいことではないが、おれだけが一方的に悪いのか?
「おれは、自分の病気を知らなかった。事情を知らなければ、夫の子を生むのをこばむ妻なんて、愛情がないと思うのがふつうだろ」
「……」
「佐知子! 謝ってるだろう!」
 佐知子は始終無言で、文句すら言わなかった。

 第14節

 佐知子はあいかわらず口をきかず、しずかに怒り続けている。あいつがこんなにしゅうねん深い女だったとは。大人しい妻の知らない一面を見たような気がした。
 ふん、もうかってにすればいい。おれはあやまった。それでもゆるさないなら、もう知らん。
 おれはふくれてテレビを見、佐知子もだまって家事をしている。
 テレビはおもしろい。さいきんのお気に入りは、アニメだ。地球ぼうえい軍の少年少女が、宇宙からのしんりゃく者を巨大ロボットでやっつける。このロボットがかっこいい。
 ピンポーン。だれか来た。おれはテレビを見続ける。佐知子が出る。
「あら、細木教授」
 細木だと? おれは体を起こした。
「ご無沙汰しています。ご主人の容態は、いかがですか?」
 そんなことを言いながら、細木が家に入ってきた。
「なんだよ、おまえ! 何の用なんだよ!」
 この盗人やろうが、おれの家に来るなんて。きたない足で入ってくるなんて。
「おやおや、元エリート教授が、テレビアニメに夢中とは……ご愁傷様ですな」
「なんだと。デリンジャー・ロボは無敵なんだぞ」
「はっはっは……小学生並だな」
 細木がでかい腹をゆらした。
「細木さん。何しにいらしたのですか?」
 夫をバカにされ、佐知子がぶぜんと訊いた。細木は、おれに向けるのとはちがった笑みを佐知子に浮かべた。
「近くを通りかかったものですから、神原氏の神経症の具合が気になりまして」
「主人は、神経症ではありません」
「おや? では、精神病ですか?」
「心の病気ではありません」
「すると、頭の病気ですか? いやあ、まったく気の毒だ」
 そう言う細木の口元には、うれしそうな笑みがにじんでいた。
「なにがおかしいんだよ、細木!」
 細木は、おれを無視した。
「しかし、奥さんも大変ですなぁ。病気のご主人を抱えて」
「はあ……」
「出て行けよ、細木!」
「あの、主人が興奮するようなので、すみませんが今日のところは――」
「奥さん、まだお若くて綺麗なのに、もったいないですな」
 細木が、佐知子にいやらしい目を向ける。
「このデブやろう! 佐知子からはなれろ!」
 次のしゅんかん、おれは頬をはられていた。いっしゅん、何が起きたのか、分からなかった。あぜんと、尻もちをつく。
 細木が、おれをなぐった? 信じられない。
「このクソ生意気小僧が、十二も年下のくせに、よくもまあ今まで、デブだの無能だの……」
 にくにくしげに、細木がはきすてた。おれは痛みのなか、おどろいて細木を見上げた。
「このガキが、おまえには本当に腹が煮えたぜ……。だがどうだい、今のおまえは、まったくいい様だな。その図体でヒーローアニメに大喜びなんだからな」
「ほ、細木さん……」
 細木のひょう変に、佐知子がおびえて青くなった。
「ねえ、奥さんもそう思うでしょう? こいつ、相当いやな亭主だったんじゃないですか? 天才か何か知らんが、俺様より偉いものはないみたいな顔してね え。まわりみんな見下して、クールな美青年気取ってさぁ。それが今や、頭の病気で小学生並の低脳だ。ハハハ、この姿、キャアキャア騒いでいた女子学生に見 せてやりたいですねえ」
「細木、おまえ……」
 怒るよりも、あぜんとなった。こいつ、おれのことそんなふうに恨んでいたのか。あんなにペコペコしてたくせに。なんて奴だ。
「出て行けよ、細木! 帰れ! バーカ!」
「バカはそっちだろ。いい年して、アニメで遊んでろ。俺は奥さんと大人の話がある」
 細木は佐知子のほうに向きなおった。佐知子はビクリとちぢんだ。
「ねえ、奥さん。神原の奴は、夜の営みほうも、小学生並なんですか? ママおっぱいとか言って、乳しゃぶってんですか?」
「帰ってください」
 佐知子が、ふるえながら言う。細木はますますニヤニヤわらい、佐知子に近づいた。
「いいじゃないですか、奥さん。亭主があんなじゃ、たまってんでしょ? 私が満足させて――」
「このブタやろう!」
 おれは細木にとびかかった。ぶんなぐる。細木の歯がとんだ。
「なにしやがる、この低脳野郎!」
 細木がなぐりかえす。おれと細木はケンカになった。佐知子のひめいがあがる。
「この野郎! この野郎! クソガキが」
「ブタが! 最低のうすぎたないブタやろう!」
「やめて、やめて!」
 家具がたおれ、小物がわれる。細木はおれよりチビだが太っていて、力があった。重い図体で体当たりし、おれの上に馬乗りになった。デブの体重で、ハラの中身が出そうになった。
「ハハハッ! どうしたどうした、天才青年!」
 めちゃくちゃになぐられる。ちくしょう、こんなブタに負けてたまるか。おれは落ちていた花ビンを、細木にたたきつけた。
「ギャッ」
 顔面で花ビンが割れ、細木がひるむ。そのスキにおれは起きあがり、細木をけりあげた。転がったところで今度はおれが馬乗りになり、やろうのハラにヒジを打ちこむ。ゲェッとカエルみたいな声をあげて、細木がゲロをはいた。
「やめろ、やめてくれ神原」
 細木がこうさんした。おれはもう三、四発、なぐっておいた。細木をはなす。
「うう、畜生こんな目に遭わせやがって……」
 細木がハラをおさえながら、うめいた。
「覚えてろよ、訴えてやるからな!」
 捨てセリフをはく。おれはペッとツバをはいた。うったえるならうったえやがれ。受けてたってやる。
「貴様の女房も、ただじゃおかないからな!」
 なに? 捨てセリフでも、それは聞き逃せない。
 おれは、一度手をはなした細木に、またとびかかった。割れた花ビンをもって。
「ひ! なんだ!?」
 凶器を手にしたおれに、細木がおどろく。
「佐知子に手を出すなら、死ね」
 おれは花ビンをふりあげた。細木の心臓にむかって、ふりおろす。
「あなた!」
 佐知子がおれに抱きつき、ねらいがそれた。花ビンはかべに深々つきささり、割れた。
「ひえええ」
 細木が青くなった。
「当たってたら、即死だった! 人殺し!」
「あたりまえだ、殺す気だったんだから」
 殺しそこねたざんねんさに、おれは舌うちした。細木はふるえあがった。
「こいつ、狂ってやがる。け、警察に……」
「そうだ、おれは狂ってるからな。警察につかまっても、無罪さ」
 おれは細木の胸ぐらをつかんだ。
「佐知子に何かしたら、殺す。うったえるなら、うったえろ」

 第15節

 細木はその後、何もうったえてこなかった。おどしではない殺意に、ずうずうしい細木もふるえあがったみたいだ。
 細木のやつにはハラが立つし、今でも会ったらブチ殺してやりたいくらいだが、やつのおかげでいいことが一つあった。
 ユミとのことでずっとむくれていた佐知子が、きげんをなおした。
 細木とのケンカでしっちゃかめっちゃかになった部屋をかたづけるのはたいへんだったが、佐知子はかたづけよりも高価な調度品のことよりも、まずおれの手当をさいしょにした。
「病院に行ったほうがいいかも……」
「たいしたことない」
 本当はあちこちいたかったが、おれは強がった。
「病院に行きましょう」
 佐知子はおれを引っ立て、病院につれていった。十針ぬった。

  病院からかえると、部屋はぐちゃぐちゃだった。佐知子はかたづけをはじめた。おれが、家具とかおもいものはてつだってやろうとすると、ケガ人だからととめ られた。おれは佐知子の手をふりほどいて、家具だけなおしてやった。ちょっとキズにひびいたが、なんでもない顔をしておいた。

 ケガがなおって、佐知子と、かいものにでかけた。もう前いったスーパーにはいけないので、すこしとおい店にいった。ちょっとしたドライブだ。けっこうたのしかった。佐知子もわらってた。
 おれはいつまで、佐知子とわらっていられるんだろう。
 さいきんは、かん字がわからなくなってきた。
 店でおれは、佐知子に絵本をかってもらった。絵本ならよめる。
 絵本なんかよむのは、はじめてじゃないかしら。コドモがよむものだと思ってバカにしていたけれど、なかなかおもしろい。
 テレビもそうだけれど、おれはいろいろなものをバカにしてきたが、やってみれば、けっこう楽しかったりするんだな。きっと、脳病にかからなかったら、こんなおもしろさは、一生しらないままだっただろう。
 おかしなもので、バカになっていって、利口だったころには知らなかったことを、知ったような気がする。テレビはおもしろい。絵本も楽しい。佐知子とドラ イブも、すてたものじゃない。今なら、佐知子との旅行も、楽しめるかもしれない。仕事以外にも、おもしろいことはあるんだ。
 でも、おれの脳は、かくじつに悪くなっていってる。テレビが何を言っているのか、分からない時がある。ニュースなんかは、ちんぷんかんぷんだ。アニメで すら、小むずかしい設定のものは、分かんない。筋のかんたんな、悪者をやっつける話とか、そういうのでないと、楽しめなくなってきた。せっかく、前はおも しろかったのに、今はもうついていけないことが、とてもくやしくて悲しい。そしてコワイ。行きつくトコロまで行ったら、おれはどうなるんだろう。
 ようじむけの絵本をよみながら、おもう。おれのあたまは、ようじなみに低下しちまったんだ。もうそろそろ、いよいよダメになるだろう。
 ないてるばあいじゃない。ほんとうにダメになる前に、身のしまつをしておこう。
 おれはりこん届けに名前とハンコをつけた。かんぜんにバカになった後の、おれがおれでなくなった後のめんどうまで、佐知子におしつけたくはない。ざいさんのことは、弁ご士にまかせた。これで佐知子も、今後の生活にこまらない。

 さち子といっしょに、えほんをよむ。さち子には、えほんなんか、つまんないんじゃないかな。でもさち子は、おもしろいといって、わらってくれた。おれにあわせているのかもしれない。
 さち子は、しんぶんがよめて、くるまがうんてんできて、りょうりができる。さち子なんかトロくさいとおもっていたけれど、かのじょはずいぶんと、いろんなことができる。
 おれはだんだん、なにもできなくなっていく。すごくかなしい。
 いまは、さち子のほうが、おれよりずっとかしこい。かなしいし、なさけないけど、おれはさち子のまえでは、よわねをはかない。いままでどおり、ふんぞりかえってやる。ひとりのときだけ、ちょっと、なく。
 おれはきっともうじき、かんぜんにこわれて、バカになってしまうんだろう。そうなったらもう、なんにもかんがえられなくなって、おれというそんざいは、 アイデンティティは、きえてなくなっちまうんだろう。カラダはいきてても、ココロはしぬんだ。そのときをかんがえたら、もう、じっさいにしぬよりこわく て、なきさけびたくなる。さち子のむねにしがみついて、わあんわあんと、なきたくなる。
 でも。
 おれは、いじでも、さち子のまえでは、いばってやるんだ。かんばらすぐるっておとこは、ふてぶてしくて、いばってて、いじっぱりなんだ。それが、おれなんだ。
 おれは、もうすぐこわれる。でも、かんぜんにこわれるまでは、おれはおれでいてやる。おれをつらぬいてやる。どんなにこわくてつらくても、じさつしたり にげたりせずに、かんばらすぐるでいつづけてやる。それが、ぜつぼうのなかの、おれのさいごのいじだ。ムズカシクいえば、そんざいいぎってヤツだ。
 そして。
 せめて、のこりすくないじかんのさいごまで、かんばらすぐるとして、さち子のそばでいきていこう。おれのさいごのじかんを、さち子にささげる。
 あいしてるなんてぜったいいわないけど、これがおれの、あいじょうひょうげんなんだ。


第二章 神原 佐知子

 第1節

「俺の後に、ついてきてほしい」
 それが、夫のプロポーズの言葉だった。
 この言葉が象徴する通り、神原優は、そのスマートな外見とは正反対の、古風な男尊女卑の人だった。
 そんな男の求婚を受けることに、不安がなかったと言えば嘘になる。こんないばりんぼの人と、やっていけるのかしら。けれど、今の若者にはない硬派さは、魅力的にも見えた。そして打算的だが、彼の才能や財産も、たしかに私の心を引いた。
 でも、結局結婚に踏み切ったのは、財産でも冷淡な魅力でもなく、彼の優しさにあったのだと思う。
 付き合っている頃から、優は唯我独尊な人だった。デートしていても、自分のペースで先に先に行ってしまう。優は長身で足が長いので、早足だ。ついていくのが大変で、知らない場所で置いてけぼりにされそうになった事は、一度や二度ではない。
 しかし、本当に置いてけぼりにされたことは、一度もなかった。私が追いつけなくなると、優は立ち止まって振り返り、私が追いつくのをじっと待つ。
 この人は頭が良くて何でも出来て、先に先に行ってしまうけれど、ちゃんと私を待っていてくれる。そう思えた。
 結婚を決めた時、優は結婚前に、自分の生い立ちのことを私にうち明けた。夫になる人が、優生学的に生まれた人工の天才であったことは、少なからず私を驚 かせたが、結婚を翻そうとは思わなかった。彼は母子家庭で育ったのだが、母親についてはあまりいい思い出がないらしく、多くを語らなかった。お金を出し て、異性の愛もなく「優秀な」子供を作るような女性であるから、どんな母親だったか、だいたいの見当はつく。私も多くを訊かなかった。

 新居は、閑静な郊外に建つ、瀟洒な広い家だった。二階建てだが、一階はガレージだから、実際は平屋と同じだ。それでも部屋が足りない、ものを置く場所がないということは無かった。これが二十四歳の青年の持ち家なのだから、まったくすごい。
「家庭のことは、君にまかせる。主婦に専念してほしい」
 釘をさすように、夫は最初に言った。彼がこうと言い出したらきかないことは、今までの付き合いで分かっていたので、私はただ頷いた。それに、彼が間違うということはないのだから、従ったほうが、失敗はない。
 箱入り娘だった私は、家事などはじめてだった。失敗の連続、すべてが手探りだった。夫は手伝ってはくれなかったが、文句も言わなかった。私が出来るようになるまで、じっと見守っているようだった。
 最初の一年は、ぎこちないながらも、世間一般の新婚家庭と同じように、甘く幸せに過ぎた。優はやはり亭主関白だったが、私のことをちゃんと目にかけてく れているのが、振る舞いの端々から分かった。彼は命令はするが文句を言わなかったし、私の支度をじっと待ち、たまにうまくできると褒めてくれた。結婚して からも、付き合っていた頃のように、休日には一緒に出かけた。
 優さんは、ちょっとワガママだけど、優しい人。私のことを愛してくれる。そう思っていた。
 甘く楽しい生活は、二年目に陰り始めた。
 主婦も二年生になると、だいたい家事をこなせるようになってきたが、夫はもう褒めてくれなくなった。家の中にいる私には、夫しか話し相手がいないのに、話しかけるとうるさがられる時があった。夫婦の会話は減り、休日に出かけることも少なくなった。
 何でもそつなくこなす夫から見ると、手探りで進む私は、ひどく苛立たしかったのではないだろうか。私はゆっくり物事を消化していくタイプだ。夫のように、最短距離で正解には辿り着けない。間違い、試行錯誤を繰り返しながら、進んでいく。
 私たち夫婦は、まるでウサギとカメだ。もっとも、このウサギは途中で昼寝なんかしない。カメは、さっさと行ってしまうウサギの後を、ゆっくり追っていく。きっと、ゴールで待っていてくれると信じながら。
 けれど、三年経って、ようやくカメがゴールに辿り着くと、ウサギはカメを置いて、行ってしまっていた。
 夫は、私の家事に対して、もっと要領よく出来ないのかと、度々小言を言うようになった。彼は時計のように規則正しくて、定刻通りに食事が出来ていない と、怒った。第一線数学者の夫は、よく学会に出席するが、旅行の用意は私に任されていて、手際が悪いとまた怒られた。
 私は、学生の頃は優等生だった。試験の一ヶ月前から準備して、上の中の成績だった。優秀ではないにしても、自分がひどい無能だなんて思わなかった。コツコツやって、それなりの成果をおさめていたのだ。
 でも、何でも出来る夫に、毎日小言を言われていると、落ち込んでくる。夫なら簡単に出来ることが、どうして私には出来ないんだろう。夫と比べて、どうし てこんなに要領が悪いんだろう。天才と結婚するものじゃない。なんだか自分が、ひどく愚かで無能なのではないかと思えてしまう。
 もう、夫は私を待ってくれていない。彼は遙か先を行ってしまって、振り返りもしない。置き去りにされた。見捨てられた。
 他人が羨ましがる広い家が、かえって辛い。夫との距離を形にして突きつけられたようで、孤独が深まる。
 もう、私たち夫婦の間に、接点はないのだろうか。夫は愚鈍な私を完全に見切り、一人さっさと行ってしまうつもりなのか。
 夫が大学に行ってしまうと、世界で独りぼっちになったようで、膝を抱えた。
 こんな広い冷たい家で、一人は嫌だ。

 第2節

「子供が欲しい」
 私は、夫に打ち明けた。夫は少し驚いた顔をしていた。
 子供がいれば、この冷たい家も少しは温かくなるのではないか。子供をかすがいに、愛情が甦るのではないか。一縷の望みにすがる思いで、私は冷淡な夫に言った。
「子供か……」
 優は眉間を寄せながら、低く呟いた。精密計算機のような彼は、うるさくて手間のかかる子供など、嫌いなのかもしれない。もし彼が子供嫌いなら、もう私たち夫婦は終わりだ。私は、祈るような気持ちで、彼の返事を待った。
「父親というものは、あまり好きじゃない。俺の父親という男は、精子を売るような奴だったからな」
 そう言われると、もう何も返せない。彼の生い立ちを思えば、当然かもしれない。夫は、父親になりたくないのかもしれない。
「子供は……嫌い?」
 私は、恐る恐る、訊ねた。夫は少し首を傾げた。
「正直に言って、あまり好きじゃない」
 ああ。私は、絶望のため息をついた。そんな私に、夫の声が降る。
「だがおまえなら、いい母親になれるだろうな」

 細い希望がさしてきた。子供を挟んで、幸せな家庭が築けるかもしれない。
 だが、子供を作るためには、当然ながら同衾しなければならない。私は、男女の愛は、肉体的なものよりも、精神的なものを求めるほうだ。しかし優は男だか らか、エロスも重視しているようだ。私たち夫婦がすれ違うようになったのは、エロスとアガペーの割合が違うせいもあるかもしれない。
 私は男は夫しか知らないが、彼の愛撫はそう下手なほうではないだろう。むしろ上手いくらいなのだと思う。だが夫のやり方はどこか攻撃的で、愛されているというよりも、征服されているような気がする。
 行為が終わって、私はそっと自分のお腹を撫でた。これで、子供が出来ているといいな。

 ピヨピヨピヨ……
 聞き慣れない音に、私は驚いて振り返った。なんと、目覚ましが鳴っている。いつも夫は目覚ましが鳴る前に起きているのに、こんなことははじめてだ。
「……」
 夫が、不機嫌に起きだしてきた。
「珍しいですね、目覚ましが鳴るなんて」
 挨拶代わりに言うと、夫の低い声が返ってきた。
「まだ朝食の支度が出来てないのか。いつまでかかっている」
 夕べは愛し合ったのに、叱責され、私はしゅんとなった。昨日のセックスは何だったのだろう。夫は、私の子供が欲しいという望みをきいてくれたのに。
「たるんでるぞ。ちょっと優しくしたくらいで、つけあがるなよ」
「はい……」
 私はますますしゅんとなって、支度をした。

 夫は夜になって帰ってきた。封も切っていない人間ドックの検査結果を渡された。私はそっと、中を開いてみた。あの夫のことだから、何も問題はないだろう……。
 しかしそこには、先天性アンダーソン氏脳病という、聞いたこともない病名が記されていた。

 第3節

 先天性アンダーソン氏脳病? 脳病とはなんだ? 私は何度も目をこすり、見返した。だが記載内容は変わらなかった。
 初耳の病気、しかも脳病などと書いてあっては、不安になる。それも先天性とは、生まれつきということではないのか? あの夫が、生得の病気を抱えていたというのか? 信じられない。
 大学病院から電話が来た。夫の検査結果のことで、話したいことがあるという。
 なんだろう。なんだというのだろう。
 不安と疑問を胸に、私は大学病院に出向いた。
「申し上げにくいことですが、ご主人は、遺伝病を持っておられます」
 医者の言葉は、私を打ちのめした。
 遺伝病!?
「なんですかそれは? なんなんですか。去年は何も無かったじゃないですか。なんで――」
 私は激しく動揺し、医者に食ってかかった。医者は私を押さえた。
「落ち着いてください。説明します」
 なんでも、先天性アンダーソン氏脳病とは、白人特有の希有な遺伝病で、三十歳前後に必ず発症し、治療法はなく、患者は若くして痴呆に陥るという。
 衝撃的な事実の数々に、私は呆然となった。
 遺伝病。痴呆。治癒不可。
 絶望的な単語が、ぐるぐると脳裏をまわった。
「お子さんはいらっしゃいますか?」
 奈落に沈む私に、医者の質問が突き刺さった。
 そうだ。夫の病気が遺伝性のものならば、彼との間に子供を作ることは出来ない。
 子供が出来ない。母親になれない。さらなる絶望が、私を襲った。

 医者にピルを処方してもらって、私は呆然と帰宅した。
 白人に多い病気。夫の病が、父親譲りであることは、疑いようがない。なんという皮肉か、優秀なはずの精子が、病気持ちだったとは。それはまるで、人間の 薄っぺらな優越に対する、自然からのしっぺ返しのように思えた。人間の優劣は、選民意識に満ちた優生学で決められるようなものではないのだ。
 どうしよう。どうしたらいいのだろう。もうじき夫が帰ってくるのに、目の前は暗く、何一つ手に着かない。ああ、また怒られてしまう。
 夫が帰ってきた。
 夫は、まだ夕食の準備が出来ていないことを、怒らなかった。彼は私の顔を覗き込み、言った。
「おまえ、どこか悪いのか」
「えっ」
 唐突な問いに、私はキョトンとなった。
「なんですか」
「おまえ、今日大学の医学部に来ただろう」
「……っ」
 心臓が止まりそうになった。夫は怪訝に私をみつめた。
「どうした?」
「いえ。別に」
 私は目をそらした。夫が覗き込む。
「どうしたんだ、何か隠してるのか? なにか、ひどい病気なのか?」
「なにも。なにも」
 私は首を振った。夫に、病気のことは言えない。治らない病気、遺伝する病気。言えない。
「隠すなよ。どうしたっていうんだ。そんなに深刻な病気なのか」
 夫は真顔になり、射抜くように私を見つめた。夫の瞳は、よく見ると少し青みがかっている。こんなふうに真剣に見つめられたのは、何カ月ぶりだろう。私がひどい病気ではないかと、心配してくれているのだ。
 違うのに。病気なのは、あなたのほうなのに。
 涙が出そうになった。
「大丈夫か? なあ。大丈夫なのか?」
 いつも冷静な夫が、狼狽して訊ねた。力強い腕で、抱きしめられる。
 ああ。
「あなた。苦しい」
 私は、夫の腕から逃れた。あのまま抱きしめられていたら、泣き出していた。
 私は、医学部に行ったのは妊娠の確認するためだと、嘘をついた。夫はホッと、肩を落とした。私はキッチンに立った。
 食卓で、私は何かとはしゃいだ。明るくしていないと、何もかもが崩れてしまいそうだった。
 その後、夫は私をベッドに誘った。この夜のセックスは、いつもの奪われるようなものではなく、柔らかく包むような感じだった。私ははじめて、セックスで幸福を感じた。

 もうすぐ六時になる。夫が目を覚ます時間だ。
 私はじっと、傍らで眠る夫を見下ろした。寝顔すら理知的だ。この人が、本当にやがて痴呆に陥るのだろうか。信じられない。
 医者は、三十歳前後で必ず発病すると言っていた。夫は二十七歳。まだ早い。まだ早い。
 ピヨピヨ……ピヨピヨ……
 六時になった。夫は、まだ寝ている。
 どうしたの。なぜ、目を覚まさないの。いつも規則正しいあなたが。もしかして、病気が発現したのだろうか。まさか。でも。
 目覚ましの音が大きくなり、夫はようやく、目を開いた。
 まだ朝の支度が出来ていないことに文句を言われながら、私はキッチンに立った。
「なにやってるんだ」
 不安に苛まれながら、上の空でする料理は料理にならず、夫の注意が飛んだ。
「もういい。今のおまえは使いものにならない。寝ていろ」
 夫は私を押しのけ、自分で料理を始めた。私は驚いた。夫がキッチンに立つ姿など、はじめて見る。この人は、料理が出来たのか。
 夫の調理は素早く、出来映えもなかなかだった。主婦歴三年の私より上手かもしれない。本当に、何でも出来る人だ。
 夫は、大丈夫。まだ発症していない。大丈夫。私はそう、自分に言い聞かせた。

 第4節

 私の不安が的中するような事が起こった。
 夫のプログラムを商品化した会社から、苦情が来たのだ。なんでも、プログラムにミスがあって、事故が起きたらしい。幸い、その事故で死者や怪我人は無かったそうだが、商品としては致命的だ。謝罪、回収、さまざまな損害が出たらしい。
 こんなことははじめてだ。夫の作ったものに、欠陥があったなんて。
 会社は、損害を賠償してもらうと息巻いているが、私には賠償よりも、夫がミスをしたことが、気がかりだった。
「俺が作ったプログラムにバグはない!」
 夫は言いがかりだと憤慨しているが、本当にそうだろうか。夫は自分のミスに気づいていないだけではないのか。己の才能を信じて疑わぬ夫。傲慢な彼は気づいていないが、病気が始まったのかもしれない。
 会社と夫の話し合いは平行線のままかみ合わず、訴訟沙汰にまで発展しそうだった。
 どうしよう。私には、プログラムなど分からない。私は、夫の研究室の細木助教授に相談した。
 細木は、夫とは体格も人生も対照的な学者で、地味な論文をいくつも重ねて、院生、助手、講師、助教授と段階を追って学問の道を歩んできた人だ。夫は彼を 無能と呼んではばからないが、無能や馬鹿では助教授になれないだろう。夫から見れば、秀才も凡人も、ただのノロマに思えるらしい。夫は、妻だけでなく、ま わり全てを、見下しているのだ。
 細木が家にあがろうとすると、夫はひどく嫌がった。私は、高慢な天才に仕える細木の苦労を思いながら、恐縮しいしい、細木を書斎に案内した。
 細木に、プログラムを見てもらう。私にはさっぱり分からない数式の羅列を眺め、細木は唸った。私はただ、横で見ているだけだった。
「これは……」
 問題の場所を示され、細木が眉をあげた。
「ああ、いけない。これは駄目ですよ、神原教授」
「なに?」
「だってほら、この構文――」
 細木が説明した。私には全然分からない。ただ、間違いがあったということが、衝撃だった。やはり夫は、ミスをおかしていたのだ。
「どこが間違ってるんだ」
 夫は、自分の間違いが分からないようだった。私はハラハラと、二人のやりとりを見守った。細木がさらに説明する。夫はようやく、ミスが分かったらしく、あっと声をあげた。
「あれ? そうなのか? そんな――いや、そうか。そうだな」
 夫はプログラムを眺め、唖然と呟いた。
「このプログラムは……バグだ。こんなカーナビで運転したら、道に迷う」
 夫は、信じられないと呻いた。こんな深刻なミスに、気づかなかったとは。何度も見たのにと、悔しそうに呟く。
 夫は、自分のミスを見過ごしていた。いや、ミスだということすら、分からなかった。自分が書いたプログラムのミスに、気づかない。説明されるまで、分からない。なんということか。以前の夫なら、細木に指摘されるまでもなく、自分で気づいていたはずだ。
 発病したのかもしれない。私は、立ちつくした。
 細木が帰った後、夫は自分の間違いに落ち込んでいた。私は慰めたが、夫は不機嫌に振り払った。
 わずかな間違いも許せない夫。こんな人が、自分の病気を知ったら、どうなるのだろう。
 私は、人間ドックの検査結果を、医者に預けた。

 ピヨピヨ……
 今朝もまた、目覚ましが鳴っている。夫はもう、自力で起きられなくなっている。論文が進まないのか、イライラしている事が多い。
 もしかして……。早い発病に、私は戦慄した。いや、違う。彼はただ疲れているだけだ。誰だって不調の時がある。私は恐ろしい現実を認めたくなくて、自分に言い聞かせた。

「あなた、どうなさったの」
 大学から帰った夫が、部屋中をかき回していた。一体何を探しているのだ。夫は言った。
「前受けた人間ドックの結果は、どこにあるんだ?」
 私は飛び上がりそうになった。
「どうしたんですか。もうシュレッダーにかけて破棄しましたよ」
 私は動揺を押し隠し、平静を装った。
「捨てただと? どうして?」
 夫が怪訝そうに訊く。私はとぼけた。
「どうなさったんです。検査結果に問題は無かったので、邪魔になるから捨てたんですよ」
「問題ない? 嘘をつけ。医者に再検査を受けろと言われたぞ」
「……っ」
「検査結果をどこにやった? 本当に捨てたのか? どんな結果が書いてあったんだ?」
「なんでも……なんでも、無かったわ。心配しすぎよ、あなたも医者も」
「おい……俺は、何か病気なのか? 先日おまえが医学部に行ったのは、自分のことではなく、俺のことだったのか?」
「いいえ。いいえ」
 問いつめる夫に、私はただ、首を振った。

 夫は、自分の健康を疑い始めている。もともと頭の良い人だ。自分の不調に気づかないわけがない。
 どうしよう。どうしよう。
 私は頭を抱え、ただただ、不安に怯えた。

 再検査の結果が来た。
 発症しているということだった。

 第5節

 発症。白痴化が始まったのか。まだ三十歳になっていない。早いではないか。
 夫が廃人になってしまったら、どうしたらいいのだ。子供も持てず、治る見込みのない病人を抱え、一生暮らしていくのか。先のない未来に、私は怯えた。
 将来のこと。生活のこと。夫の介護のこと。重い問題が、私を圧迫した。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。どうして私の夫が、よりによって、そんな業病を背負っているのか。
 優との夫婦生活には、いろいろ不満もあったが、夫の生活力やリーダーシップなど、私は彼に頼っている部分も多かった。冷たい人、ワガママな人とばかり思っていたが、私は今になって、夫の長所に気づいた。優は、夫としての責務は十分に果たしてくれていたのだ。
 優は、家庭に潤沢な収入を入れ、社会的に尊敬される職につき、普通にセックスをして、浮気や浪費、暴力的虐待もしない。多少の小言や冷淡さが、なんだというのだ。素晴らしい夫ではないか。
 けれどこれから、優はどんどん、壊れていく。夫の責務どころか、社会人としても、機能しなくなる。この業病の患者のなれの果てを医者に訊くと、最後は食事や排泄さえも、自力ではおぼつかなくなるほど、呆けてしまうという。
 夫が、人間性の欠片もなく呆けながら、排泄を垂れ流しにしてる様を想像して、私は寒気がした。あのプライドの高い夫が、そこまで落ちるのか。
 ああ。あああああ。
 どうしたらいいのか。こんなことなら、いくら威張っていても冷たくてもいいから、元のままでいてくれたほうが良かった。私は、優の不満だった面を、恋しくさえ思った。
 誰にも相談できず、何も知らぬ夫を横に、私は一人、嘆いた。

  このところ、夫はひどく不機嫌だ。元々朗らかな人ではないが、最近はとみに、イライラしている。不調が続いて、苛立っているのだ。今までミスなどしたこと がなかったのに、小さな失敗が続き、仕事が滞る。夫は、正体の分からない不調に苛立ち焦燥していた。この人は、よく働く。普通の人でも、若くして痴呆など 悲劇だが、まして優のような男は、才能と知性がすべてだ。それゆえ、仕事が思うようにいかない彼は、ピリピリとしていた。
 優は、仕事イコール才能の発揮イコール自分なのだ。夫にとって、仕事が滞ることは、自分を表現できないことと同じだ。
「優さんは、完璧主義だから。気を張りすぎなのよ。旅行にでも行かない?」
 仕事以外にも自分を見つけてほしい。そんな思いから、私は提案してみた。
「旅行? 何言ってるんだ、そんな暇あるものか。論文が出来ないのに、学会が近いんだ」
 夫は、噛みつくように却下した。
「仕事、仕事、仕事……優さん。いつもそんなだと、疲れませんか?」
 あなたはもう、仕事が出来なくなるのよ。仕事だけにしがみついていたのでは、どんどん場所を失っていくのよ。私ははじめて、何でも出来る夫が、実はとて も不器用な人であったことに気づいた。この人は、その才能ゆえに、とても狭い世界で生きていたのだ。遊びを知らない。休むことを知らない。働くこと、成果 をあげることしか、出来ない。
「仕事はもちろん大切だけれど、人生にはもっと楽しみや余裕があってもいいと思うわ」
「ふん。家のなかのことしかしない主婦には、働く男のことなんて、分からないだろうさ」
 私は、ため息をついた。なんて傲慢な人。まるで明治時代の男みたいだ。
 思えば夫の人格は、その才能を基盤にしている。天才になるべくして生まれ、愛情の少ない英才教育を受けたことが、彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたこ とは、想像に難くない。私だって、もし天才に生まれて、母親から勉強しろとばかり言われ、その才能で若くして成功をおさめたら、周囲を見下し、己の才に自 惚れる人間になっていただろう。そうならないほうがおかしい。
 そんな夫が、こんな救いのない病におかされたのだ。そのずば抜けた知能は衰えはじめ、やがて痴呆になってしまう。なんということ。私は、何も知らない夫以上に、打ちひしがれた。

 一本の電話が、私の悲嘆に鉄槌をくだした。
 夫が、交通事故を起こしたというのだ。事故! 知らせに私は飛び上がった。
 自損事故で、夫の怪我も軽傷ということだが、私は化粧もしないで病院に駆け込んだ。
 無事故無違反、機械のような運転でずっとゴールド免許を維持してきた夫が、はじめて事故を、それも車をぶっつけるようなミスをした。病気の進行に、私は戦慄した。
 夫は、病院の廊下の椅子に腰掛けていた。湿布のようなものがあてがわれているだけで、本当に軽い怪我ですんだようだ。私は胸を撫で下ろした。
「佐知子」
 低く呼び、夫は顔をあげた。その憔悴した面もちに、私は目を見張った。
「? なに?」
 夫の暗い表情に若干狼狽えながら、私は訊ねた。
「俺は、何の病気なんだ?」
「……」
 一瞬、頭が白くなった。私は慌てて、取り繕った。
「どうしたの、あなた……」
「もう、ごまかすのはやめろ。分かってるんだ。ハッキリ言ってくれ!」
 夫は、苛立ったように叫んだ。一つ息をつき、夫は落ち着いた、だが決然とした口調で言った。
「今回は幸い、自損事故のすり傷で済んだが、一歩間違えば死んでいたかもしれないんだ。本当のことを教えてくれ」
「……」
 私は立ちつくした。夫が私を射抜くように見つめる。青みがかった、真剣な瞳。沈黙。私は、観念した。もう、隠せない。私はついに打ち明けた。
「……あなたの病気は、先天性アンダーソン氏脳病よ」
「先天性アンダーソン氏脳病? 脳病だと? なんだそれは」
 夫は、唖然とした表情になった。信じられない、理解できないという顔だ。それもそうだろう。生まれつきの病気、それも脳病だなんて、優の許容を越えている。いや、優でなくたって、誰だって、自分がそんな病気だなんて知らされたら、驚く。
「今年になって発見された遺伝病だそうよ……」
 私は、諭すように言った。
「遺伝病!? 馬鹿な、俺の遺伝子に異常があるっていうのか?」
「白人に多く見られる珍しい病気で、三十歳前後に発病、知能が低下し、痴呆に陥る病気なの。首から下には異常がなくて、脳だけがおかされていく。これまで、七十六人の患者が確認されているそうよ。主にアメリカ、ヨーロッパで――」
 私は説明したが、夫は途中からもう聞いていないようだった。
「嘘……嘘だ……」
 頭を抱える。夫は膝をついた。俺は優秀な精子から生まれたのに何故、と呟く。
「二十七年前には、まだ発見されていなかった病気よ……」
 私は諦観をこめて言い添えた。人間の薄っぺらな優越感に対する、自然の逆襲。なんという皮肉。優秀なはずの遺伝子は、致命的な病気を抱えていた。利己的で不自然な生殖によって天才児を生み出そうとした冒涜に対して、自然という神は過酷な罰をくだしたのか。
「な、治るんだろ?」
 夫は膝立ちのまま、私にすがりついた。打ちひしがれ、立ち上がる力もないようだ。
「治るんだよな? 治療法はあるんだよな?」
 すがりつく。しがみつく。夫のこんな姿は、はじめて見る。こんなひどい病気でなければ、いつも威張っている彼がすがるのを、小気味よく思えたかもしれない。けれど、ここまで救いのない過酷な状況では、ただ悲しいだけだ。どんな偉丈夫だって、絶望する。
 私はかける言葉もなく、夫を見下ろした。
「なんで、黙ってるんだよ? 治るって言えよ……大丈夫だって……」
「……」
「佐知子!」
「……治らないの」
 夫の青みがかった目が、灰色になったように見えた。ひゅう、と喘息のような呼吸をもらし、私にしがみつく腕から、力が抜けていく。
 私は、人が絶望で人事不省に陥るのを、はじめて見た。

 夫が気絶したのを、医者は貧血だろうと診断したが、それは間違っている。あまりに残酷な真実に精神が耐えられなかったのだ。
 私は、ベッドにぐったり横たわる夫の傍らに座り、彼の寝顔を見下ろした。蒼白だ。
 そうだ。夫の青い顔を見ていて、私は胸を突かれた。
 私は夫の病気を知ってから、ずっと自分のことばかり考えて悲嘆に暮れていたが、本当に辛いのは病人である彼ではないか。この人が一番、苦しいのだ。私は 痛くも痒くもないくせに、一人で悲劇のヒロインぶっていた。私は、己の身勝手に気づいた。なんて自分中心の女だ。
 苦しみ、絶望に喘ぐのは私ではない。夫なのだ。私は、泣いていてはいけない。途方に暮れていてはいけない。私はこの人の妻だ。私が、この人を守り、支えなければならないのだ。
 二人で、この病と戦っていかなくてはいけない。

 第6節

 ピヨピヨ……
 今朝も目覚ましが鳴っている。夫はまもなく、起き出すだろう。私は朝の支度をしていた。
 寝室から、ドカンというような大きな音がした。私は飛び上がった。
「どうしたの!?」
 駆けつけてみると、壁が割れ、目覚ましが壊れていた。私は目を丸くした。
「片付けておけ!」
 怒鳴り、夫は乱暴に寝室を出た。
 夫は、触れれば切れるような険しい空気をまとい、一言も喋らず、支度をすませた。私は怯えながら彼を見送り、一階におりた。
「あなた、車は、もう――」
 夫が車に乗り込もうとしたので、私は止めた。夫には、もう車の運転は危険だ。
「くそっ」
 夫は力任せに、クラウンのドアを閉めた。大きな音がした。私は首をすくめた。
「あの、私、運転免許取るわ。あなたの送り迎えを……」
「おまえみたいなトロい女、運転なんか出来るもんか!」
 私の提案を一蹴し、夫は歩き出した。私も彼の横に並ぶ。
「なんだ、おまえ。出かけるのか」
「駅まで送って……」
「なに?」
 途端、突き飛ばされた。夫は怒鳴った。
「馬鹿にするなよ! 一人で駅にくらい、行ける!」
 夫に手を挙げられたのは、はじめてだ。すごく怒っている。
 優を、傲慢で乱暴だと言ってしまうのは、易い。けれど彼の業病や生い立ちを考えると、ワガママの一言で片付けるのは、あまりにも簡単すぎる。
 夫の自尊心を傷つけてしまい、私はただ項垂れた。このプライドの高い人は、自分の病気やその症状が、許せないのだ。病人扱いされることが、我慢ならない。
 多少辛く当たられても、仕方がない。本当に苦しいのは、彼のほうなのだ。怒鳴られ突き飛ばされた私より、夫のほうが何倍も痛くて辛いのだ。
 夫の怒りに、私は返す言葉もなく、彼を見送った。

 もうすっかりお馴染みとなったピヨピヨは、もう鳴らない。私は夫を揺り起こした。
「お母さん……」
 夫が寝ぼけて呟いた。母親の夢でも見ているのだろうか。子供の頃は、母親に起こしてもらっていたのかもしれない。優にも、母親の手を煩わせる少年時代があったのか。そう思うと、少し微笑ましい気持ちになった。
「うるさい!」
 夫は叫んで起きあがった。びっくりして、和やかな気分が飛んだ。
「……佐知子」
 夫はキョトンとして、私を見返した。
「時間ですよ」
 目を覚ました夫に言う。夫はため息をついた。あまりいい夢を見ていなかったようだ。やはり母親に愛されていなかったのか。
「遅れますよ」
 私はそっと促した。彼の母親のように、ガミガミと強制したくはなかった。夫はまた、ため息をついた。
「いいんだ。もう、大学には行かなくても」
「今日は、休校日ですか?」
「辞めたんだ」
 夫は静かに言った。私は息をのんだ。
「……そうですか」
 大学を辞める、教職を退く。いつか来ると分かっていたこと。けれど私は、落胆せずにはいられなかった。病気がまた一歩、進んだのだ。
「そういうわけだから、俺はまた寝る。しばらく放っておいてくれ」
 疲れたように言って、夫はベッドに転がった。布団に潜り込む様は、傷ついてうずくまっているように見えた。学問一筋で生きてきた夫が、学びやを去ったのだ。その心中は察して余りある。私は何も言わず、そっと寝室を出た。

 夫が眠っている間、私は食事を拵え、家を出た。自動車教習所に向かう。
 これから夫は、何も出来なくなっていく。私に出来ることは、やれるようになっておかなくては。今まで夫に頼っていたことを、自分で出来るようにならなければ。
「神原さんはスジがいいですね」
 教官が褒めてくれた。私は微笑みもしなかった。スジがいいのは、必死だからだ。
 自動車免許取得は、ほんの手始めだ。しなければならないことは、山ほどある。財産や生活のことも考えなければならないし、介護の勉強もしなくてはいけない。
 戦いは、始まったばかりだ。
 辛く長い道のり。夫と一緒に、歩いていこう。

 二時間の自動車教習と三時間の授業を受け、足を引きずるようにして帰宅すると、夫が手首を切って倒れていた。

 第7節

 病室。白いベッド。一命を取り留めた夫を見下ろしながら思う。
 遺書は無かったが、優が自殺未遂を図ったことは、明らかだ。
 なんということ。
 知性を失うくらいなら、死んだほうがマシなのか。この人は、知性の他は、何もないのか。病気と戦う勇気も、取り残される妻への思いやりも無いのか。
 同情よりも、怒りがわいた。
 情けなかった。悔しかった。
 辛いのは分かる。苦しいのは分かる。
 けれど、私だって頑張ろうと、あなたを支えようと必死だったのに。
 多少の八つ当たりや愚痴は辛抱できても、自殺に逃げるなんて、そんな自分勝手な弱い行為は、許せなかった。
 神原優は、逃げようとしたのだ。嫌なことや面倒なことを全部投げ出して、自分一人だけ、逃げ出そうとしたのだ。
 なんという弱虫か。これが、あれほどプライドの高かった男のすることか。
 悲しいを越えて、悔しくなった。献身を踏みにじられたような気がした。これほどに妻をないがしろにして、自分だけ楽になろうとするとは。ひどい男だ。弱い奴だ。
 夫はゆっくり目を開いた。
「……気がついた?」
 出た声は、自分のものではないように、低かった。怒りがほとばしる。夫は、覚醒したてのボンヤリした目を開いた。
「あなたがここまで勝手な人だとは、思わなかった」
「佐知子?」
「勝手な人。わがままな人。一人で絶望して、一人で自殺をはかって。自分のことばっかり。弱虫」
「どうしたんだ、佐知子」
「甘ったれたエゴイスト。情けない男。死んで楽になって、それでおしまい? 私や残された者のことは、どうでもいいのね。自分さえ良ければいいのね。しかも、自殺の理由が、痴呆への絶望とは。なんてスカスカな、中身のない奴なの」
 スラスラと、罵倒の言葉が出る。けれど、千の罵詈をもってしても、私の怒り悔しさを表すには足りない。
「な……なんだ?」
 夫は面くらい、次いで怒った。
「おまえ、おれに向かってそんなこと言うのか。自分が何を言ってるか、分かってるのか。おまえに、おまえなんかに、おれの絶望が分かるのか」
「そんな弱虫の絶望なんか、分かりたくもない」
 私は、夫の怒りを一蹴した。夫の怒りよりも、私の憤りのほうが大きい。夫はただ、逃げて楽になろうとしただけなのだから。苦しみを分かつつもりであった妻を置いて。
 私はさらに言った。
「知性を失って自殺。つまりあんたは、知能を取ったら、何も残らない男ってことね」
「なに……」
「スカスカじゃないなら、中身があるのなら、生きてみなさいよ! 普段威張っている十分の一でいいから、意地を見せてみなさいよ!」

 私は、病室を出た。中庭を突っ切るように歩く。花壇が並び、うららかに蝶が舞っている。
 平和な風景を見ていて、憤った心が、少し落ち着きを取り戻した。私は深呼吸をした。
 中庭の遊歩道を、病人とその付き添いが、ゆっくりゆっくり、歩いていく。私は、その様子をぼんやりと眺めた。
 ただ歩くだけなのに、病人は額から玉の汗を流している。健康な人には何でもないことも、病人には試練なのだろう。
 ……。
 私は、夫の病室を振り返った。
 私は、怒りにまかせて、ひどいことを言ったのかもしれない。文字通り死ぬほど苦しんだ人に対しては、怒りよりもいたわりと思いやりで、接するべきだったのかもしれない。
 夫は、人生という遊歩道を、もう歩けないと、しゃがみこんでしまったのだ。そんな病人に、私はもっと歩けと、蹴ったのだ。
 私は夫を自分勝手と責めたが、私もまた、自分だけの怒りに捕らわれた偏狭な人間であったかもしれない。
 私は立ち止まり、己の行いを反省した。
 夫は、死ぬよりも、生きているほうが辛いのだろう。病人ではない私に、その苦しさを理解することは出来ない。ただ、察してやるだけだ。
 そんなに辛いのなら、もういい。一緒に戦おうとは言えない。楽になりたいなら、なればいい。私のことも、置いていってくれていい。私は病院を出て、小型ナイフを買い求めた。
 私は病室に戻り、夫にナイフを差し出した。
「……今度手首を切るときは、もっと深く思い切って切らないと、動脈まで届きませんよ」
 私は静かに言った。夫は唾を飲み、新品の刃を見つめた。
「そこまで、おれに愛想が尽きたのか?」
 怯えたような、悲しいような目で私を見返す。違う。逆だ。あなたを可哀想だと思うからこそ、その苦しみを断つ道具を与えたのだ。私は自殺幇助で訴えられるかもしれないが、構わない。あなたの苦しみは、死ぬほどに辛いのだろう。
「佐知子……」
 夫はいつものように、怒らなかった。
「おれ、どうしたらいい……?」
 夫の口から漏れたのは、弱々しい声だった。
「どうしたらいい? このまま、おれ、どんどんバカになる。怖い。どうしたらいい? 何も出来なくなる、何も分からなくなる。こ、怖い。すごく怖い。怖くてたまらない」
 夫は私にすがりついて、ガタガタと震えた。彼の恐怖と絶望が、私にも伝わってきた。
 怖がっている。怯えている。あの自信家だった夫が。
「あなた……」
「怖い……助けて」
 夫は、泣いた。虚勢も意地も、ありはしなかった。そこには、絶望に恐怖する弱い心だけがあった。長身で私より年上のはずの夫が、小さく幼く見えた。
 可哀想、そんな他人事のような感情はわかなかった。どんな慰めがあるというのか。妻、伴侶でありながら、私に出来ることは何一つないのだ。夫を支えると息巻きながら、私は無力だった。
 私は、ただずっと、彼を抱き続けるしか出来なかった。

 第8節

 夫は退院し、私は彼と共に帰宅した。家に帰ると、ほっとする。夫は、たまった新聞を読み漁っていた。
「……!」
 夫は突然、新聞を放り出した。
「あなた!?」
 何事かと呼んだが、彼は返事もせず、駆け出していった。どうしたというのだろう。後を追おうとしたが、長身の夫は恐ろしく早足で、すぐに見失ってしまった。
 一体……?
 病気の発作でも出たのだろうか。先天性アンダーソン氏脳病に、精神錯乱の症状は聞かないが。私は不安に思いながら、夫が落としていった新聞を拾い上げた。
「あら……?」
 そこには、夫の元部下、細木助教授の栄進の記事が載っていた。これを見て、夫は走り出していったのだろうか。すると彼の行き先は、大学か?
 私は大学に電話をしてみた。優は来ていないということだった。時計を見ると、飛び出していってまだ十分と経っていない。
「もし夫がそちらに伺ったら、ご連絡ください」
 私はこちらの電話番号を告げ、受話器を置いた。ふう。息をつく。
 三十分ほどして、大学から電話がかかってきた。優が、大学に来たという。もの凄い剣幕だったそうだ。夫の居所が分かって安心したが、彼の挙動にまた心配が募る。
「はい、ありがとうございます。すぐ伺います」
 私は受話器を置くと、車で大学に向かった。
「夫は……神原はどこですか?」
 大学に訊くと、もう出ていってしまったということだった。どうして引き留めてくれなかったのか。夫は病人なのに。口惜しかったが、家族以外は夫の病気を知らないのだから、仕方がない。
 クラウンで帰宅すると、私は夫の帰りを待った。
 待った。
 待った。
 二時間待ったが、夫はまだ帰らない。どうしたのだろう。脳裏に、錯乱してとんでもなく遠い場所まで行ってしまった夫の姿が浮かんだ。馬鹿な。あの病気は、痴呆にはなっても、キチガイにはならない。寄り道しているだけだ、きっとそうだ……。
 警察に通報しようかと迷い始めた頃、電話が鳴った。
「佐知子……」
 消え入りそうなその声は、夫のものだった。
「優さん!? どこに行ったのよ? 今どこ?」
「××駅……」
 なんと夫は、大学の最寄り駅にいた。大学を飛び出して二時間も、優はたいした移動もせず、停滞していたのか。夫の、心細そうな細い声が聞こえてきた。。
「迎えに来てくれ……帰り方が、分からない……」
 受話器を落としそうになった。そこまで、病気が進んだのか。明らかな、知能低下。私は、受話器を強く握りしめた。
「分かった。すぐ行くわ。そこを動かないで」
 電話を切り、私は再び、クラウンに乗った。
 ああ。夫はついに、電車にも乗れなくなってしまった。涙が出そうになり、私は歯を食いしばった。しっかりしろ。私が泣いてどうする。本当に泣きたいのは、夫のほうなのだ。私は、電話の彼の細い声を思い出した。
「優さん」
 駅に着き、私は車から下りた。夫は、キョトンとして私を見つめた。
「佐知子、おまえ、運転なんか出来たのか?」
 意外そうに言う。とろい私がクラウンで疾走してきたことに、驚いたらしい。
「免許取りたてよ」
 私は、少し胸を張ってやった。いつも夫の後についていくばかりだった私が、ちょっと逞しくなったような気がした。
「さあ、家に帰りましょう」
 私は夫の手を取った。夫の肩が、ふっと落ちた。彼の体から、力が抜ける。安心したような、泣きそうな表情。
「どうかしたの、あなた?」
「なんでもないやい」
 夫は子供のように言って、フイと横を向いてしまった。

 第9節

 大学を辞職した夫は、家の中で手持ち無沙汰にしていた。以前はよくやっていた難解なロジックパズルや複雑なプログラミングは、今の彼にはもう出来ない。
 仕事を離れてしまうと、夫にはすることがないようだった。改めて、彼は狭い世界で生きていたのだなと思う。
「買い物に行きませんか」
 退屈そうな夫に、そっと声をかけてみた。買い物なんか嫌がるかと思ったが、意外にも彼は喜んで応じた。
 前は電車を使っていたが、今は車で買い物に行く。夫は助手席で少し居心地悪そうにしていた。
「おれだって前は運転してたのにな」
 夫は羨ましそうに、私を見た。
「これからは私がどこでも連れていってあげますよ」
「ヘン」
 夫はプイと横を向いてしまった。拗ねたのだろうか。なんだか時々、彼は子供っぽい。これも病気が進行したせいなのだろうか。でも拗ねた夫は少し可愛い。
 やがてスーパーに着いた。夫はカートを押しながら、珍しそうにしていた。
 優さんと買い物をするなんて。私は、くすぐったいような気持ちになった。発症前には考えられなかったことだ。夫は決して、妻の買い物に付き合うような人ではなかった。それが、カートを押してついてきてくれるのだ。
 付き合っていた頃、新婚だった頃に戻ったようだ。
「何を笑ってるんだ」
「ふふ。優さんと買い物なんて、はじめてだなあと思って」
「……。そういや、そうだな」
 夫がカートを押す手つきが、急にぎこちなくなった。意識してしまったらしい。おかしくなって、私はまた笑った。
 楽しい。夫と出かけて笑ったのは、久しぶりだ。
「あれーッ、センセーじゃん」
 甲高い女の声が、店内に響いた。
「げっ……」
 夫の喉から、妙な声が漏れた。彼の視線を辿ると、若い派手な女が立っていた。短いスカートから伸びたむっちりした足が目を引く。誰だろう?
「奥さんとお買い物ぉ? 仲良いんだぁ」
 女が、私たち夫婦を見て言った。
「どなた……? 主人のお知り合い?」
 夫に、こんな知り合いがいたとは。夫が嫌いそうなタイプだが、男好きのしそうなタイプでもある。女は体をくねらせて名乗った。
「木之元ユミでぇす。××大学文学部でぇす」
「ああ、じゃあ、主人の――」
 挨拶しようとすると、夫が引き離すように、私の肩を掴んだ。
「行こう、佐知子。もう教え子でも何でもないんだ」
 すると女は、口を尖らせ、高い声で言った。
「冷たぁい。冷たくすると、ユミは叫ぶぞう。センセーとエッチしたって、叫ぶぞう」
「え……」
 私は驚いて立ち止まった。今、この娘は何と言ったのだ?
「あの女、アタマおかしいんだよ。行こう」
 夫は、離れようとする。たしかに、こんな人前で白昼堂々、エッチなどと口走るのは、まともではない。あることないこと言っているだけだろう。
「ケッ、頭おかしいのはそっちだろ。神経症のサド野郎」
 女が舌打ちした。彼女は夫から私へ、視線を転じた。
「奥さぁん、あんたの亭主、右タマの横っちょにぃ、チョンチョンってちっちゃい黒子二つあるよねぇ」
 女の発言に、まわりの客が目を剥く。私も、驚愕に固まった。だが私は、一般客のように公衆での非常識な言に驚いたのではなく、女が私の夫の体のことを言い当てたことに、仰天した。夫には、女が言うとおりの特徴がある。
 なんでこの娘は、人の夫のそんなことを知っているのだ? ただの頭のおかしい女ではない。
 女は、さらに言った。
「そいでねぇ、このヒト、髪は黒いのにぃ、アッチの毛は栗毛なのー! エッチしたから知ってんだあ!」
 私は凍り付いた。この女は、夫の裸を見たことがあるのだ! 二人は、そういう関係だったのだ。
「キチガイか、おまえ! 白昼堂々、なんてこと大声でぬかしやがるんだ!」
 夫が、女に飛びかかった。
「皆さーん! この男は、元大学教授で、学生にサド行為をして、神経症で大学辞めて、今失業中の変態でーす!」
「だまれ!」
 夫が女の首を絞める。店員が止めに入った。女は、笑いながら逃げていった。
「ケケケッ! ざまーみろ! 女房に捨てられちまえ!」
 なんてことだ。夫と私は、店の注目の的になった。ザワザワ、ヒソヒソ、クスクスと、失笑と好奇の針が刺さる。羞恥と怒りで目眩がした。
 私は、逃げるように店を出た。店員につまみ出された夫も、私の後に続いているようだが、私は振り返らなかった。車に乗り込む。発進させようとすると、夫が慌てて乗り込んできた。
 私は、ものも言わず、アクセルを踏み込んだ。
 夫が何か言っているが、頭が煮えて聞こえない。クラクラする。
 優は、この男は、不義を働いていたのだ。あれだけ亭主関白に反り返って、それでいてコソコソと他の女と密通していたとは。なんて、なんて、なんて見下げ果てた――
 夫が古風な硬派であっただけに、私の怒りは大きかった。妻に貞節と従順を強要しておきながら、自分は気ままに乱交する。そんな勝手が、裏切りが、許せる ものか。古風で硬派だからこそ、私だけを愛してくれると思っていたのに。これではただ、威張っているだけの節操なしではないか。
 二度の信号無視をして、私は突っ込むようにして、車をガレージに入れた。キーもかけずに、車から飛び出す。夫が続いた。
「佐知子」
 家に入り、夫が後ろから声をかける。私は振り返らなかった。
「ちがうんだ、あの女とは、浮気ですらない。金がある男なら誰でもいい尻軽で、売女みたいなもんだ。うさばらしに一度買っただけだ」
 言い訳をする。体だけの関係だろうが遊びだろうが、妻を裏切った行為であることに、変わりはない。妻がいながら女を買うなんて、結婚の神聖を冒涜している。
 男は愛がなくてもセックスできるかもしれないが、女は愛がなければセックスできない。ユミとかいうあの女は違うのかもしれないが、少なくとも私はそうだ。
 私にとって、セックスは快楽の手段ではなく、愛の表現だ。それなのに。
「悪かった。おまえがピルを飲んでるのを知って、おれとの子供を作りたくない、裏切られたと思ったんだ」
 夫は長い体を折った。夫のつむじなど、はじめて見たような気がする。だが私は、無言で冷たく見下ろすだけだった。頭を下げたくらいで許されることではな い。今まで、夫の横暴には大抵耐えてきたが、これだけは耐えられない。愛を裏切ることを、許すわけにはいかない。
「おれは、自分の病気を知らなかった。事情を知らなければ、夫の子を生むのをこばむ妻なんて、愛情がないと思うのがふつうだろ」
「……」
「佐知子! 謝ってるだろう!」
 千の言葉で謝罪しても、裏切ったという事実は消せない。言葉で拭えるような過ちではない。その罪の重さは、愛の重さと等しい。私は夫に背を向けた。

 第10節

 私は押し黙って、食事の用意をしていた。女の一件から三日経つが、あれから私は一言も夫と話していない。最初は謝っていた夫は、今ではもうふてくされて、寝転がってテレビを見ている。
 最近、夫はテレビアニメばかり見ている。嗜好の幼稚化は、脳病が進行したためだろう。夫の病気は日一日と悪化している。
 呼び鈴が鳴った。夫は動かない。私はため息をついて、玄関に出た。
「あら、細木教授」
 来客に、私は少し目を見張った。
「ご無沙汰しています。ご主人の容態は、いかがですか?」
 細木はにこやかに笑いながら、私が何も言わないうちに、中に入ってきた。夫の見舞いに来たのだろうか? 細木と夫が、そんなに仲が良かったとは到底思えないが。
「なんだよ、おまえ! 何の用なんだよ!」
 細木を見るや、夫は起きあがって怒鳴った。細木はテレビを一瞥し、目を細めた。
「おやおや、元エリート教授が、テレビアニメに夢中とは……ご愁傷様ですな」
 細木は愉快そうに笑った。嫌な笑い方だ。
「細木さん。何しにいらしたのですか?」
 私は不愉快になった。病人を笑うなんて。
「なにがおかしいんだよ、細木!」
 夫が叫ぶ。細木は取り合わなかった。
「しかし、奥さんも大変ですなぁ。病気のご主人を抱えて」
「はあ……」
「出て行けよ、細木!」
「あの、主人が興奮するようなので、すみませんが今日のところは――」
 夫だけでなく私も不快になるので、細木には出ていってほしかった。しかし細木は出ていかなかった。
「奥さん、まだお若くて綺麗なのに、もったいないですな」
 細木が、粘着質な視線を向けてきた。鳥肌が立った。なんだ、この男?
「このデブやろう! 佐知子からはなれろ!」
 夫の罵倒に、細木の表情が変わった。
 一瞬だった。細木は、その横伸びした体格からは信じられないほど俊敏に、夫を殴った。
 私は呆然となり、夫も頬を赤くして目を丸くしていた。大学教授が、かつて上司であった病人に手をあげたのだ。
「このクソ生意気小僧が、十二も年下のくせに、よくもまあ今まで、デブだの無能だの……」
 細木が低く唸った。
「ねえ、奥さんもそう思うでしょう? こいつ、相当いやな亭主だったんじゃないですか? 天才か何か知らんが、俺様より偉いものはないみたいな顔してね え。まわりみんな見下して、クールな美青年気取ってさぁ。それが今や、頭の病気で小学生並の低脳だ。ハハハ、この姿、キャアキャア騒いでいた女子学生に見 せてやりたいですねえ」
「ほ、細木さん……」
 大学教授の本心に、私は怖くなった。細木は夫を憎んでいたのだ。
「ねえ、奥さん。神原の奴は、夜の営みほうも、小学生並なんですか? ママおっぱいとか言って、乳しゃぶってんですか?」
「帰ってください」
 細木に不愉快を抱くよりも、怖くなってきた。私は逃げ口を探した。細木はニヤニヤ笑いながら、出口を塞いでいた。
 どうしよう、細木は尋常ではない。警察、警察に――
「奥さん。亭主があんなじゃ、たまってんでしょ? 私が満足させて――」
 すり寄ってくる。ぞっとした。冗談じゃない!
「このブタやろう!」
 夫が細木に飛びかかった。肉と骨がぶつかる音がして、細木の体躯が傾いだ。床に細木の歯が転がっていく。
「なにしやがる、この低脳野郎!」
 細木が殴り返す。男二人の格闘になった。殴り合いの喧嘩など、はじめて見た。私は息を飲んだ。
「この野郎! この野郎! クソガキが」
「ブタが! 最低のうすぎたないブタやろう!」
 双方、本気でぶつかり合い、拳が血塗れになる。歯が飛ぶ、血が飛ぶ。すごい。互いを殺しかねない勢いだ。
「やめて、やめて!」
 怖い。止めに入ることなどとても出来ず、私はただ悲鳴をあげるだけだった。無論、私の制止の声など、男たちには届かない。調度品が倒れる。皿が砕ける。壁に穴があく。もう、滅茶苦茶だ。
 夫が、落ちた花瓶で細木の顔を割った。怯んだ細木に、夫が肘鉄を見舞う。
「やめろ、やめてくれ神原」
 細木はついに降参したが、夫はさらに数発、殴った。
「覚えてろよ、訴えてやるからな!」
 細木は腹を押さえながら吠えた。それに対して、夫は血の混じった唾を吐いた。細木が捨て台詞を吐く。
「貴様の女房も、ただじゃおかないからな!」
 ピクリ。夫の表情が変わった。
「佐知子に手を出すなら、死ね」
 夫は割れた花瓶を振り上げた。その鋭い切っ先は、まっすぐ細木の胸に向かっている。
 細木を殺す気か!?
「あなた!」
 私は夫に抱きついた。花瓶は、細木の脇の壁に刺さり、割れた。危なかった。
「ひえええ! 当たってたら、即死だった! 人殺し!」
 細木が青くなった。本当に、私が止めなければ、花瓶の切っ先は細木の胸を抉っていたに違いない。危機一髪だ。
「佐知子に何かしたら、殺す。うったえるなら、うったえろ」
 夫は細木の胸ぐらを掴んで、言った。

 第11節

 細木は怯えて退散し、後には嵐が通り過ぎたような部屋が残った。怖かった。私はしゃがみこみそうになったが、へたりこんでいる場合ではなかった。夫はあちこちから血を流している。
 私は狼狽えながら、夫の血を拭い、傷口を消毒した。浮気への怒りも忘れた。それどころじゃない。
「病院に行ったほうがいいかも……」
「たいしたことない」
 夫は平気そうにしているが、拭っても拭っても血が垂れ、次々痣が浮いてきた。これは相当痛いに違いないし、家庭の手当で治る怪我ではない。
「病院に行きましょう」
 強がる夫を、私は病院に引きずっていった。十針も縫う大怪我をしていた。

 病院から帰宅すると、滅茶苦茶になった部屋が待っていた。私はため息をつき、片づけを始めた。一人で綺麗に出来るだろうか……。
 するとなんと、夫が片づけを手伝い始めた。
「何してるの、優さん」
 驚いた。あの夫が、手伝ってくれるなんて。しかも、怪我をしているのに。
「私がやりますから、怪我人は養生していてくださいな」
「うるさいな。私がやりますったって、おまえの細腕じゃ、タンスなんか戻せやしないだろ」
 止めてもきかず、夫は血と汗を滲ませながら、家具を直した。家具が元通りになっただけで、随分片づいた。あとは知らんと言って、彼はふいと奥に行ってしまった。ちょっと覗くと、夫は傷を押さえてうずくまっていた。
 心配になったが、私が怪我を案じると、夫は怒るのだろう。
 素直じゃない人だ。不器用な人だ。優しい人だ。そして、私を愛してくれている人だ。私を守るためなら、人を殺すことだって躊躇しない。私のために怪我をして、痛いのを我慢している。
 心が軽くなった。ユミとかいう女のことなんか、どうでもよくなった。

 夫と一緒に、ドライブを兼ねた買い物に出かける。車窓を流れる景色を見たり、たわいないお喋りをしたり。そんな何でもないことが、夫は楽しそうだ。きっと彼は今まで、こんな小さなゆとりを、知らなかったのだろう。
 日用品を買い込んでいると、夫が私の袖を引いた。絵本を買いたいという。
「もう、かん字がよめないんだ」
 夫は寂しそうに言った。胸を突かれる。
「じゃあ、どんな絵本を読みましょうか」
 私は、動揺を出さぬようつとめ、児童書のコーナーに足を向けた。

 夫と一緒に絵本を読む。絵本といっても馬鹿に出来ない。大人の目で読んでも、心に響く物語もある。
「おまえには、絵本なんかつまらんだろう。おれにつきあわなくてもいいぞ」
 夫の言葉に、私は首を振った。
「つきあいで読んでるんじゃないわ。面白いわよ」
「……そうか?」
「ええ」
 私は微笑んだ。絵本が楽しいのは本当だが、それよりも、夫と一緒の時間を過ごしていたかった。
 穏やかな生活のなかでも、夫の病気は進んでいる。夫の時間は残り少ない。なんでも好きなことをさせてあげたい。どんな贅沢だっていいし、なんなら女遊びでも構わない。
 理性が、心が残っているうちに、望むことがあればすべて叶えてあげたい。
 だが夫は、ただ私の横で、絵本を読んでいた。それが彼の一番やりたいことなのかと思うと、切なくて涙が出そうになった。

「……さち子」
 いつものように絵本を開くと、夫が肩を落として言った。
「えほんを、よんでくれないか?」
 ひらがなも読めなくなったのだ。私は絵本を開き、夫に朗読した。夫は、もう読めぬ文字を、指でなぞった。何度も。何度も。
「……あなた」
 堪えきれなくなって、私は絵本を閉じた。涙が一条、落ちていく。
「ごめんなさい、辛いのは優さんなのに」
「おれはへいきだ」
 夫は強がった。嘘だ。あれだけ頭の良かった人が、字も読めなくなって、辛くないはずがないのに。迫り来る痴呆が、怖くないはずがないのに。
「優さん、泣きたかったら、泣いていいんですよ」
「泣かん。そしておまえも泣くな」
「はい……」
 私は涙を拭った。夫が泣かないのに、私が泣くわけにはいかない。すると、夫は言った。
「いや、やっぱり、おまえは泣いていい。おれよりもおまえのほうが、苦しいから」
「……?」
「おれはもうすぐ、ぜんぶの苦しみがなくなる。苦しみをかんじなくなる。でも、おまえはちがう」
 夫は私を正面から見つめた。
「おれはもうすぐ、いなくなる。おまえはおれのヌケガラと生きていく。じごくだ。だから、おれがかんぜんにバカになったら、もうおれは死んだとおもえ。死体はすてろ」
 なんということを言うのか。私は息をのんだ。心臓が痛む。
「やめて、あなた。そんなことは言わないで」
 私は夫にしがみついた。いなくならないで。消えないで。神様、これ以上、彼の知能を、心を、奪わないで。
 夫は、黙って私の頭を撫でた。その青みがかった瞳にはたしかに、知性の輝きがあった。

 翌日。夫は喋らなくなっていた。彼の知性は、潰えた。

 第12節

 人間が、知性を、思考を失うとは、どういうことなのか。
 人の心は、言葉や思考で成り立っている。人間は、何をするにも、まず考える。そこには言葉と論理がある。その思考の変化が、心を作り、その人の個性を作る。その人をその人たらしめる。だから、言葉を知らぬ赤ん坊には、個性がない。
 言葉を覚え、考えることで、人は人になっていくのだ。
 今、私の前にいる人は、誰なのだろう。話しかけても答えず、虚空を見つめるこの人は、誰なのだろう。昨日まで私の夫だったこの人は、誰なのだろう。
 夫は、どこに行ったのだろう。
「優さん、どこ?」
「……」
「ねえ、あなた。どこに行ったの?」
「……」
「ねえ!」
「アウ」
 意味のない声をあげ、彼は私の手を払った。私は立ちつくした。
「優さん……」
 返事はなく、彼は空を見つめたままだった。自分の名すら、分からないのか。
 ああ。
 砕けた。完全に、壊れた。
 夫は、神原優は、いなくなったのだ。消えたのだ。知性と共に、彼の人間性もアイデンティティも、潰えたのだ。
 涙も出なかった。悲しいを越えていた。私の前には、夫の姿をした人間以前の何者かが、キョトンと座っていた。

「ウーウーウー」
 彼が、機嫌が悪そうに唸っている。私はもう、この人を夫とは、優とは呼ばない。この人はもう、優ではない。代名詞「彼」だ。
 どうして唸っているのだろう。思考を失った人にも、感情や機嫌はあるのだろうか。
「どうしたの?」
 訊いたって、答えはない。だが、返事はなくとも、すぐに理由が分かった。腹の虫が聞こえたのだ。
 空腹だから、不機嫌になる。それは感情というより、ただの反射、本能だ。赤ん坊だって、飢えれば乳を求めて泣く。それと同じだ。
 彼には感情はない。個性もない。反射と本能だけで生きている。
 私は、キッチンに立った。リビングからは、苛立つような催促の足踏みが聞こえてくる。言葉はなくとも、急かされているようだ。
 私は、夫が健康だった頃、食事の支度で小言を言われたことを思い出した。あの時は叱られるのが嫌だったけれど、今となっては、小言さえ懐かしい。もし今、あの人が戻ってきて小言でも言ってくれたら、私は喜んで急いで料理を拵えるだろう。
 二人分の料理が出来た。私は、無意識のうちに、夫が好きだった料理を作っていた。ため息が出た。もう、あの人はいないのに。
 食べ物の匂いにつられたのか、彼がキッチンに歩いてきた。
「アッ」
 料理を見て、彼は笑った。嬉しいのだろうか。食べるという、本能の喜びだろう。
 私は箸を使ったが、彼は手掴みだった。原始人のように、かぶりつく。マナーも何もない。やはり彼は、本能と欲求だけで生きている。動物だ。
「……?」
 私は、ふと目を開いた。彼は、優の好物だったおかずばかり、鷲掴みにしている。最後には皿をなめる始末だ。私は驚いた。
「それが好きなの?」
 無論彼は答えないが、その食べっぷりが、返事になっていた。なんと、痴呆になったのに、好物は変わらないのか。私は、妙な感じがした。さっき笑ったのは、好物があったからか。
「アア。アア」
 彼は、空になった皿を突きだした。おかわり、ということだろうか。私は戸惑いながら、おかわりを盛った。彼はまた、嬉々として平らげてしまった。
「アア」
 また、皿を突き出す。
「駄目ですよ。いくら好物だからって、そればかり食べていては」
 私が皿を片付けると、彼は少し不満そうな目をした。
「他のものも食べてくださいね」
 私は、残ったおかずを箸に取り、彼の口元にもっていった。一瞬、彼は目を丸くし、フイと横を向いた。
「ちゃんと食べないと」
 また口元にもっていくと、彼は顔を背けた。好物以外は食べたくないのか。私は苛立った。すると彼は、箸で取ったものには口を着けないで、皿にあるものを手で取って食べた。
「なんだ。食べるんじゃないの」
 だったら素直に、箸で取ったものも口にすればいいのに。不可解に思いながら、私は箸を降ろした。痴呆の人の考えは、分からない。
 私は自分の食事を再開した。彼はガツガツと頬張っている。あまり見目良いものではない。
「ねえ。やっぱり、お箸で食べてくださいよ」
 私はまた、箸で取って、彼の口元にもっていった。彼は顔を背けた。どうも、箸が嫌いなようだ。
「ほら」
 私は、無理矢理、彼の口に箸を押し込んだ。
「アグ……」
 喉の奥で声をあげ、彼は目を開いた。次いで、みるみる、赤面した。
「ワッ」
 一声叫んで、彼は立ち上がった。私が呆気にとられていると、決まり悪そうにまた座った。モソモソと、残りのご飯をかきこむ。顔は赤い。
 なんだ……? 私は首を傾げた。
 もしかして、照れている?
 痴呆の人にそんな感情があるのか? まさか。しかし、彼の挙動、表情は、言葉こそないものの、照れている人のそれだった。私は唖然と、彼を見つめた。彼は食べ終わり、そそくさと別室に行ってしまった。

 痴呆になっても、感情は残っているのだろうか? 何も考えられないのに?
 人間は、言葉と思考でもって考え感じるものだと思っていたが、違うのだろうか。言葉のない世界がどういうものなのか、私にはちょっと見当もつかない。
 彼はテレビを見ている。番組は、カーチェイスのアクション映画だ。「ブウウー」とか「ギューン」とか、車の擬音を発しながら、食いつくように見ている。 彼は以前、車好きだったが、その名残なのか。それとも、メカニックなものを好むのは、男の子の習性なのだろうか。
 彼は痴愚に陥ったが、どうやら感情を失ってはいないようだ。しかしそれは幼児並の素朴な心でしかないのだろう。アクションシーンが終わると、彼はつまらなそうに寝てしまった。

 弁護士がやって来た。優の署名捺印がある離婚届と、彼の財産に関する書類を抱えていた。
 夫が、理性を完全に失う前に、手配しておいたのだ。莫大な財産は離婚後二分され、半分は私に、もう半分は痴呆の彼の世話を条件に、養護施設に寄付することになっているという。
「奥さんが離婚届に署名捺印すれば、後の手続きは私どもで滞り無くいたします」
 弁護士は離婚届を私に差し出した。その紙切れに、私は戸惑ってしまった。
「あの……今、署名捺印しなくてはいけませんか?」
 私は狼狽えながら訊いた。弁護士は片眉をあげた。
「どうかなさいましたか?」
 弁護士の表情には、軽い驚きが見えた。私が離婚に応じないのが、不思議なようだ。
「病人を抱えてのご家族の苦労は、察して余ります。誰も奥さんを責めはしませんよ」
 弁護士は哀れむような目で、私と彼を見た。
「でも、その……突然、離婚届を突きつけられても……」
 心の整理がつかない。
「期限があるわけではありませんし、急ぎはしませんが、これはご主人が希望なさったことです。ご主人は今日のことを予想して、このような策を講じておかれたのです。ご主人が離婚を望まれたのは、残された奥さんを思われてのことです」
 弁護士は、すぐそこに「彼」がいるにも関わらず、夫のことを過去形で話した。そう。もう神原優はいないのだ。夫は最後の理性でもって、身の始末をしていったのだ。
「彼」は、自分がしておいたことなのに、キョトンをした顔で、私と弁護士のやりとりを見ている。
 彼には幼稚な感情が残っているようだが、もう神原優ではないのだ。それでも、突然離婚届を突きつけられて、そうですかとアッサリ署名捺印することは出来なかった。
 弁護士は、離婚届と名刺を置いて、届を出したら連絡をくださいと言って、帰っていった。

 第13節

 幼児化した彼との生活が続く。彼はテレビを見たり、ラクガキをしたりして遊んでいる。退屈すると寝る。私はなんだか、三歳児の母親になったような気がした。
「はいはい、ボク、あんまりテレビに近づいちゃダメよ」
 私は、小さい子に注意するように彼に言った。すると彼は眉を寄せた。
「ウー」
 不機嫌に唸り、そっぽを向いてしまった。大好きなテレビも見ない。どうしたのだろう。
「どうしたのかな?」
 子供の機嫌をうかがうように、彼を覗き込む。彼は明らかに不愉快そうな顔をして、私から離れた。なんなのだろう。注意されたことが、そんなに気に障ったのか。だが、彼はもう言葉を理解出来ないはずだ。

 彼の不機嫌が直らない。話しかけてもそっぽを向く。言葉は分からずとも、声をかけられているくらい分かるだろうに。何が気に入らないのだろう。痴人の心を推し量るのは、難しい。
 空腹になると、彼は足踏みをしたり、箸やフォークでテーブルを叩く。幼児並の催促。私はため息をつきながら、食事を拵える。
 食事はぼろぼろ零すし、着替え入浴も一人ではままならない。それでいて、私が手伝おうとすると、嫌がる。医者は、脳病が最終段階まで達したと告げた。これ以上、悪くはならない。つまり最悪だということだ。
 せめて症状の改善が見られれば救いがあるのだが、彼に知性復活の兆しは見られない。彼は食う、寝る、遊ぶの繰り返しで生きている。幼児と化した夫を抱え て一生過ごすのかと思うと、不安になる。しかもこの幼児は、成長しないだけでなく、素直でないのだ。変に不機嫌で、何を考えているのか分からない。
「お母さんを困らせないでよ」
 彼の癇癪にほとほと困り果て、小言を言ってみる。彼は私を睨んで、横を向いた。
 離婚して、彼を養護施設に預けて、貰う財産で悠々自適に暮らしてしまおうか。そんな誘惑が、胸を過ぎる。私を薄情な妻だと言う人もいるかもしれないが、介護は綺麗事では済まない。
 考えてもみてほしい。彼も私もまだ二十代、その若さで、残りの人生を病気と介護に費やすのだ。一生、成長しない赤ん坊を抱えて生きていくのだ。それを、愛情と道徳だけで、支えられるのか。愛情さえあれば乗り越えられるなどと言う者は、偽善者だ。
 へし折れてしまう。綺麗事だけでは、やっていけない。別れてしまえば、楽だ。
 けれど、未練と見栄が、私と彼を繋いでいた。彼はもはや以前の夫ではないが、顔かたちは同じなのだ。別れて他人から薄情者と陰口を叩かれるのも嫌だ。それに、薄い望みだがもしかしたら、医学の進歩が彼を救ってくれるのかもしれない。

 私のわずかな愛情を砕くことが起こった。
 普段、私は彼を家の中に置いて、買い物や所用に出かける。以前は一緒に買い物に行ったが、今は私一人で出かける。痴呆の彼を、外には出せない。
 だが彼は、いつも家に居たのでは退屈なのか、ある日ちょっと目を離した隙に、一人で外に出ていってしまった。
 嫌に静かなので、私は彼がいないことに気づいた。
 ぞっとした。痴呆の男が、ブラブラ徘徊しているのだ。頭は幼児でも、体は西洋人並の体格の大男だ。何をしでかすか。
 私は慌てて、外に飛び出した。
 彼は車に乗れない。電車、バスの乗り方も分からない。歩いていける範囲にいる。そう遠くには行っていないはず。私は近所を駆け回った。
「長身で混血風の若い男を見ませんでしたか?」
 私は道行く誰彼なしに訊ねた。通行人は首を捻った。
「そういう人なら、あっちのほうで見たよ」
 十人ほどに訊いた所で、手応えがあった。良かった! 私はほっとして、その人に勢い込んで訊ねた。
「ありがとうございます! どちらのほうで見かけましたか?」
「あっち……公園のほう」
 その人は肩をすくめ、指さした。私は頭を下げ、教えられたほうに走った。
 そこは、隣町の公園だった。自宅からそう遠い場所ではない。駅よりも近いくらいだろうか。
 はたして、彼はいた。
 見つけて、私は安堵した。けれど、それは一瞬だった。
 団地の前の公園だった。子供たちが遊んでいて、彼も一緒になって戯れていた。小さな子供に混じって、上背のある大の男が砂遊びに興じているのだ。それは奇異な眺めだった。
「なにあれ……?」
「頭おかしいのよ」
 公園で遊ぶ子供らの母親であろうか、若い主婦らが遠巻きに彼を眺め、囁く。その失笑に、私は凍り付いた。
 夫が、笑われている。だが私は、怒るよりも羞恥に立ちつくした。恥ずかしい。私は、子供と一緒になって遊ぶ彼を、恥ずかしく思った。
 私は、ひどい妻だろうか。病気の夫を恥ずかしく思うなんて。けれど私は、道徳よりも、愛情よりも、羞恥に俯いた。あの白痴の人を夫ですと、胸を張って言えなかった。

 第14節

 離婚しよう。彼を施設に入れよう。
 公園の砂場の一件で、私は決意した。
 道徳よりも、愛情よりも、罪悪感や見栄よりも、羞恥が勝った。
 どう飾ろうと、私は彼を恥ずべき者だと思ったのだ。白痴の彼に、私は否定の感情を抱いたのだ。
 差別? 薄情? どうでもいい。もう、綺麗事はたくさん。
 彼と別れる。縁を切る。面倒なことは、施設にまかせる。私はもう、あの愚かな人と一緒にいたくない。私まで笑われたくない。

 私が身支度しているのを、彼は不思議そうに眺めていた。いつもの買い物や日常の所用で出かけるのとは違う空気を、白痴なりに感じているのか。私は怪訝そうな彼と目を合わせないようにした。なんだか責められているような気がするのだ。
 私は悪くない。私にだって、自分の幸福を追求する権利がある。私はまだ若い、前途がある、私の人生を絶望と介護で塗りつぶす権限など、誰にもないはず。それに彼だって、私よりもプロのヘルパーに看てもらったほうが、幸せだろう。私は悪くない。
 支度をしながら、私は自分に言い聞かせた。
 支度が整い、私は立ち上がった。息を吸い込み、彼を見る。
 均整のとれた長身、端正な面差し、黙って立って居れば発病する前と変わらなく見える。この人は時々、理知的にさえ見える表情をする。でもこれは、もうどうしようもない白痴で、以前の夫とは別人なのだ。私は彼から目を外した。
「行きましょう」
 振り切るように呟き、私は彼の手を取った。

 地図と首っ引きになりながら、車で施設に向かう。痴呆や精神病など、特殊な病人を扱うその施設は、病人の保護のためか隔離のためか、ひどく辺鄙な場所にあった。
「ええっと……」
 カーナビはついていない。カーナビには嫌な思い出――夫の病気の発端――があるので、取り付けていないのだ。私は地図を見つめ、頭を抱えた。
「ウー」
 助手席の彼は、車窓の風景を眺めながら、苛立った唸り声をあげている。どうしたのか、何が気に入らないのか。だが彼が不機嫌なのはいつものことなので、私は気にしないように努めた。……とくに、施設に入れよう、彼と別れようとしている今は。
 それにしても、こんな調子では、いつまで経っても着かない。
「ああ、もう」
 私はついに車を止め、施設の人に迎えに来てもらうことにした。
 すると。
「あっ」
 驚嘆。なんと、停車した途端、彼が助手席から飛び出して行ってしまった。なんてこと!
 私は慌てて後を追った。
 彼はどこに行くつもりなのか、人気の無い田舎道を速足に過ぎっていく。まさか見捨てられ施設にほうり込まれるのを嫌がって逃げているわけはないだろうが、白痴でも体は頑健、長身のせいもあり、逃げるような速さで歩いていく。
「待って!」
 こんな所で見失っては大変だ。私は焦った。どんどん、彼が遠くなる。
 と。
 彼が、ピタリと立ち止まった。
「?」
 戸惑ったが、足を止めてくれたのは有り難い。私は側に駆け寄った。だが彼は、私が近づくと頷き、その腕を取るより先に、また早足で歩いて行ってしまった。
「待ってよ」
 スタスタ、先に行ってしまう。どこに向かっているのか。また距離が開く。彼は振り返り、立ち止まった。けれど私が近づくと、また先々に歩き出してしまう。
 何なのだ。鬼ごっこのつもりなのか?
 こんなことが前にもあったような気がする。
 そうだ、結婚前の付き合っていた頃、優と出かけるといつもこんな調子だった。唯我独尊な彼は先に先に行ってしまって、私は後を追いかけるのに精一杯だっ た。置いて行かれてしまう、何度そう思ったことか。でも置いて行かれたことは一度もなかった。いつも立ち止まって――
 ……。
 私は足を止め、目を見開いた。前方では彼が、じっと立ち止まって私を見ている。恋人だった頃と同じように。
 まさか……。
「優さん……?」
 呼びかける。返事はない。ただ、待っている。私は走った。近くまで行くと、彼はまた歩き出した。少し行って、振り返り、また立ち止まる。
 間違いない。彼は、先を歩きながら、私を置いていかないように待ってくれている。健康だった頃と同じに。そこにいるのは、没個性の痴人ではなかった。
 なんと。こんなことがあるのだろうか。言葉さえも失って、白痴となった人に、以前の人間性が残っているなんて。知性の喪失と共に、彼の人格も潰えたのではなかったのか。
 信じられないが、そこにいるのはたしかに、返事こそないものの、以前と変わらぬ夫だった。
 どういうことなのだろう。どうなっているのだろう。
 私は嬉しくなるよりも、驚愕に戦いた。
 人間は、言葉で、知性で、考え感じているのではなかったのか。一切の知性を失った人は、赤ん坊と同じ、本能のままに生きる廃人ではないのか。個性や人格は失われるのではないのか。
 私の脳裏に、「彼」の立ち居振る舞いがよぎる。
 食事が遅いと催促する彼。箸を口元に持っていくと照れる彼。注意すると不機嫌になる彼。
 我が儘で照れ屋でプライドが高い――これは、以前のままの神原優ではないのか。そして今、彼は昔と同じように、先に歩いて私を待っている。
 私がこの人との結婚に踏み切れた、あの優しさを、変わらずに。
「……」
 立ちつくす。
 ああ。
 夫の人格は、潰えたわけではなかったのだ。夫はどこに消えたわけでもなく、そこにいたのだ。知能を失っても、我が儘も頑固さも優しさも変わらない。人間性は、個性は、知能に左右されるものではなかったのだ。
 知能とは、人間の個性の一端に過ぎないのかもしれない。心とは、そう簡単に壊れるものではないのかもしれない。人間は、意外と強いのかもしれない。
 涙が、出た。夫が消えていなかったということと、人間の強さに。
 夫は喋らなくなっただけで、性格、人間性は、何も変わっていなかったのだ。
 この人は、変わらずに、私を置いていかず待っていてくれている。
「優さん」
 駆け寄る。夫は歩き出す。追いかける。
 視界が開けた。現れた建物は、私たちが目指していた施設だった。夫は、ここに向かっていたのか。何度か下見して、道を覚えていたのだろう。車で不機嫌だったのは、道が分かっているのに私の要領が悪かったからか。
 施設に着いた。目的地。でも。
「帰りましょう、優さん」
 私は夫の袖を引いた。もう、施設に彼を預ける気はなくなっていた。
 この人は廃人ではない。私の夫だ。我が儘で頑固で不器用で優しいままの、私の夫なのだ。


 

あとがきならぬ、中書き

とりあえずここまで発表していて、長年放置だった作品です。続きもあるにはありますが、この終わり方は作者のお気に入りなので、切ないラストが好きな人は、これでこのお話は終わりなんだとやめていただくのがよろしいです。

続きの第三章を読みたい人はコチラ

 十年ぶりくらいに書いたので、優や佐知子の性格が微妙に変わっている気がしないでもありません。




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