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米倉事件簿


 向日葵  ※先に「美少年」をご覧ください


 警察に、匿名の手紙が届いた。女文字の手紙で、事件なのかどうか分からないが、どうにも不安なので話を聞いて欲しいという、よく分からない内容であった。
 名前もないうえに、事件の詳しいことも書かれていない。ただ、不安と焦燥だけを綴ってある文章。イタズラではないかとも思われたが、何事もなければよし、万一事件であったら大事、念のため、話だけでも聞いてみようということになり、若手刑事の米倉に、白羽の矢が立った。
「僕ですか?」
 訳の分からない出張を命じられ、米倉は困惑を隠せなかった。先輩刑事は面倒くさそうに、女文字の封書を米倉に押しつけた。
「ホレ、百戦錬磨の強面剛腕刑事では、ご婦人が怯えるだろう。君のような若い優男なら、ご婦人も安心して話が出来るというものさ」
「はあ……」
 米倉は口を尖らせながら、封書を受け取った。ようするに、一番若い下っ端の米倉に、面倒な雑用が回ってきたというだけのことだ。米倉はため息をつきながら、手紙に指定された場所に向かった。

 待ち合わせのカフェーには、五、六人の客が座っていた。そのうち、女は一人しかいなかった。米倉は、その若い女性の側に足を向けた。
「アラ」
 米倉の出現に、女は顔を上げた。
「刑事さんですの?」
「ええ」
 米倉は、チラリと警察手帳を覗かせ、
「手紙をくださった方ですか」
「はい、さようです」
 女は、ぺこりと頭を下げた。礼儀正しい様子だ。イタズラをしたり、頭がおかしいような女には見えない。
「お名前は?」
「……」
 女は、名乗りたくないようだった。怯えたように、肩を縮める。これは込み入った事件かもしれないと米倉は背を正した。米倉は、女の正面に座った。
「今日お話していただけるのは、どういったものですか?」
「はい、あのウ……私の女学校時代の友人のことです」
 女は、友人とその周辺の疑惑について、語り始めた。

 私には時江さんという友達がおりました。物凄い美人の女学生でありました。でも美人は薄幸なのか、ご両親をいっぺんに亡くされて、泣く泣く学校を中退されてしまいました。
 私は時江さんと一番の仲良しだったので、彼女が学校を出ていった後も、チョクチョク連絡をとっておりました。彼女は学校をやめたあと、生活のために働いているということでした。百貨店の受付嬢やら、活動の女優やら。私から見れば花形だけれど、内気な時江さんには、辛い仕事のようでした。
 時江さんのお手紙は、人前に出る仕事が辛い、女学校時代が懐かしいという泣き言ばかりだったけれど、そんな文面がいつしか、明るいものになっていきました。
 時江さんの前に、青年が現れたのです。
 その人はなんと、男爵の御曹司で、ステキな美男子で、品行方正、大学出のインテリゲンチァで、非の打ち所のない男性だと、時江さんは褒めちぎっていましたわ。そんな人がいるわけない、彼女が恋に盲目になっているのが可愛いやら可笑しいやら、ともあれ薄幸美人が幸せそうなので、私は良かったわねと返事しておきました。
 ただ、時江さんの話を聞いていて、その青年紳士はあまりにも出来過ぎていて、彼女は騙されているんじゃないか、それだけが心配だったのですけれど……。
 彼女からまた手紙が届いて、それはこれまでのような浮かれた内容ではありませんでした。なんでも、例の御曹司とついに婚約したのだけれど、相手の両親がこの結婚に反対している。時江さんのようなお金持ちでない娘は嫁に出来ないと、突っぱねられてしまったらしいのです。
 やっぱり、お金持ちはお金持ち同士で結婚するようになっているのよねえ。私は世間の打算に呆れ、時江さんに同情しましたわ。でもその一方で、やはり都合のいい話は無いんだと、納得してもいました。ひどい友人かしら?
 でも時江さんの王子様は、土下座までして、結婚の許しを請うたそうです。すごいわよねえ、貧しい孤児の娘と結婚するために、御曹司が生まれて初めて額を地面につけたのですもの。時江さんからその話を聞いたときは単純に感心したものでございます。
 でも、御曹司のご両親の男爵夫妻は、どうしても首を縦に振らなかった。
 青年は駆け落ちしようかとまで思い詰めたそうだけれど、前途ある御曹司にそんなことはさせられないと、時江さんは恋人を説得しなすったの。
 私、二人がどうなるのか、恋愛小説でも読んでいるような気持ちだったわ。思い詰めた二人が心中なんてことにならなければいいけれどと、そればかり心配して、何度も何度も時江さんに励ましの手紙を送ったものでございます。
 私のヤキモキは、あっけなく意外な形で決着がつきました。時江さんから手紙が届いたのです。
 不幸があったので、来年の年賀状は出さないでくださいという通知でございました。なんでも、婚約者の御曹司のご両親が亡くなったということ。驚きながら私は、例年の賀状を、引っ込めたものでございます。
 でもまあ、こう言ってはなんだけれど、若い二人の傷害は、これでなくなったわけでございますね。
 喪が明けた頃、また時江さんから手紙が来ました。例の御曹司と結婚するというお目出度い知らせで、その招待状が同封されていました。
 親友の時江さんの玉の輿を、私は自分のことのように喜んで、出席しますと返事を出しました。
 披露宴での時江さんは、花のように美しくて、同性ながらため息が出てしまいました。その隣の御曹司もすこぶる美男子で、こんな絵に描いたようなカップルが実在するものなのねと、私は羨ましくなったものであります。御曹司のことは、時江さんの手紙で聞いていたけれど、本当に彼女の言うとおりの人でした。
 彼は美形で物腰柔らかで、内気な時江さんを優しくエスコートなすって、男爵家の御曹司というのも嘘ではなかったらしく、披露宴は豪華で、お客の中には、新聞で何度か拝見したような上流階級の方々がチラホラ。
 でも、お客はまばらで、結婚式だというのに、どこか険悪な雰囲気でございました。どうやら、上流階級の方々は、男爵夫妻亡き後、御曹司の妻におさまった時江さんを、毒婦のように思っておいでのようでした。とくに、緒方少将閣下ときたら、右翼の堅物でいらしたから、時江さんをハッキリ娼婦とまでおっしゃっていたわ。でも、俯く時江さんを、新郎が甲斐甲斐しく庇っていらした。
 私は周囲の冷淡に憤慨したけれど、新郎が時江さんを気遣う様を見て、これで薄幸な彼女もやっと幸せになれると、嬉しかった。
「良かったわね時江さん。良かったわね」
 私は何度も二人を祝福したけれど、時江さんの表情はどこか暗かった。結婚の幸せよりも、不安のほうが大きいみたいでした。まだ十九で、今までずっと不幸だったのだから、突然の幸せと若い結婚に、戸惑っているのかもしれない。そう思いました。
 そして、披露宴が終わって、一週間も経った頃かしら。
 時江さんどうしているかしらと思いながら新聞を広げて、ちょっと驚きました。披露宴でお会いした緒方少将閣下が、殺されたと出ているのですもの。
 緒方少将閣下は忠君愛国を押し進める右翼の巨頭でいらしたから、彼の死は共産主義者による暗殺ではないか、などと、議会でもずいぶんもめたらしいですわね……政治の詳しいところは、女の私にはよく分からないけれど……。
 先日会った時は、ご高齢とはいえ軍人らしくピンシャンしていらしたのに、人間とは儚いものだと、私、妙に厭世的な気分になったものでございます。
 平和にぼんやり過ごしている私の元に、新婚で幸せいっぱいのはずの時江さんから、手紙が届きました。×日は夫が留守だから、是非屋敷に来て欲しい。相談したいことがあるって。
 なにかしらね? あの優しいステキな旦那様に聞かれたくない話だなんて。やはりいくらステキでも、時には女同士の積もる話があるのでしょう。それとも、一緒に暮らすうちに、ステキな青年の仮面が剥がれて、いろいろイヤな所、鼻につく所が出てきたのかもしれない。
 ともあれ、私は不謹慎ながらちょっとワクワクして……はしたないけれど、男女のもつれ、しかもあんな美男美女の……チョット興味がわくじゃございませんか……男爵邸に向かいましたの。
 男爵邸は、それあ立派でございました。鹿鳴館みたいな美しいお城で、ピカピカの新築。御曹司が……いえ、もう男爵になられた時江さんの夫が、わざわざ新居を建てなすったのです。そういえば時江さん、女学校時代、お城に住みたいなんて、乙女のたわいない夢を語っていらした。普通そんな夢叶わないけれど、時江さんは実現したんだわ。羨ましい、そんなふうに思いました。
 男爵は留守だとうかがっていたけれど、私がお屋敷に赴くと、旦那さんは家にいらっした。相変わらずの美形に、私を見て優しい笑顔を浮かべられて、挨拶をするとさっさと出て行かれた。
「留守に来客があるというから、心配していたのよ。男じゃないかって」
 時江さんが、少し痩せたような顔で言ったわ。来客が浮気相手じゃないか見極めるために、用事を延ばして待っていたというのです。私は少し目を丸くしました。
「まさか。あの爽やかな男爵様が、そんなヤキモチ焼きなわけないじゃない。たとえそうだとしても、それだけ愛されているなら、羨ましいわ」
「羨ましい……そうね、そうなのね。私は、幸せのはずよね……」
 青白い美貌でため息をつく時江さんは、それはもうぞっとするような美しさでしたけれど、なんだか幸せではないような様子でした。
「どうしたの時江さん?」
 私は不審に彼女を見ました。優しい美男の夫、お金、お屋敷、使用人。すべてに恵まれているのに、彼女の塞ぎようはどうでしょう。
「いいえ……なんでもないのよ」
 時江さんは力無く微笑んで、首を振りました。
「悩みでもあるの?」
 もしや時江さんの夫のあの紳士は、外面は良くてその内面、亭主関白で妻を殴るような暴君なのかしら。モノスゴイやきもちやきだというし。
「いいえ。夫は、一度だって、私を殴ったことは無いわ」
 言われてみれば、時江さんの綺麗な顔には、アザ一つありませんでした。男爵は、時江さんを殴るどころか、小言の一つも言わないそうです。
「夫は毎日、私を愛していると。働かなくていい、家事なんかしなくていい、不満があるなら何でも言ってくれ。いつも笑顔でいてくれと。君の幸せが僕の幸せだと。そう言うの」
 まるでおのろけを聞いているようだけれど、語る時江さんの表情は、そんな甘いものではありませんでした。
 男爵はそれあもう時江さんを大事になすっていて、時江さんが嫌がっていたお勤めをスッパリ辞めさせて、欲しいものは何でも買ってくだすって、彼女が冗談にもらしたお城の夢を本当になさって、家事は一切使用人に任せ、時江さんがちょっとでも体調を崩そうものなら大騒ぎ、お金持ちの美男でいらっしゃるのに愛人を持たず、一途に妻だけを愛している。
 まあまあ、まるで嘘のような、理想的な夫じゃないの。すべての女性が憧れるような、素晴らしい結婚生活ではないの。それなのに時江さん、この恵まれた境遇が怖いとおっしゃるのです。
「こんなに愛されていて……大丈夫なのかしら。なにか、とんでもない落とし穴があるのじゃないかしら……」
「考えすぎよ」
 私は笑って、時江さんを励ましました。不遇だった時江さんは、今の幸福が怖いのでしょう。私は、そんなふうに思いました。
「それで、相談とは何なの?」
「……」
 時江さんは美貌を陰らせ、人払いをしました。部屋に鍵をかけ、私と二人きりになりました。一体、何なのでしょう。私は戸惑いました。時江さんは言いました。
「ここだけの話、貴女にだけ言うのだけれど……」
 幸福の絶頂にある時江さんは、その幸運ゆえに、周囲の妬みも買っているようでした。貧しい出だと馬鹿にされたり、作法がなっていないと笑われたり。時江さんは、社交界での苦労を語りました。玉の輿も気楽なものではないのだなぁと、私は羨望のなかにも同情を抱きました。
「とくにひどいのが、荻窪子爵夫人。ヒステリックな中年婦人で、若い美しい娘と見ると、姑のようにいじめるの。それでいて、社交界では絶大な権力をお持ちだから、彼女に嫌われると、サロンでは立つ瀬がないの」
 時江さんは、その美貌と若さのため、ずいぶんと社交界で目の敵にされたようでございます。くだんの子爵夫人は、時江さんの出自が裕福でないことをあげつらい、些細な失点を、重箱の隅をほじるように大仰に申し立てるというのです。でも狡猾なことに、荻窪子爵夫人が時江さんをいじめるのは、彼女が夫と離れて一人でいる時だけで、横に男爵がいらっしゃる時は、とても感じよく振る舞うのだそうです。つまり時江さんは陰でコソコソと陰湿にいじめられているのでした。
「明日も荻窪子爵夫人のパーティーがあるのだけれど、もう考えただけで胃が痛いわ……」
「休むわけにはいかないの?」
「荻窪子爵はサロンの大御所でいらっしゃるから、無視するわけにもいかないの」
 時江さんは長い睫を伏せ、どうしたらいいのかしらと、呟きました。
「ご夫君の男爵に相談されてはいかが?」
「でも……告げ口するようで、気が引けるわ」
 時江さんが夫の留守に私に悩みを打ち明けたのは、夫に泣きつくようなことをしたくなかったからなのでしょう。けれど、時江さんの話を聞いていると、彼女一人がどう頑張っても、問題は解決しないように思えました。時江さんのように薄幸な青白い人が、たった一人でヒステリー夫人と戦えるわけがありません。
「そうね……やはり、夫に泣きつくしかないかしら」
 私のアドバイスに、時江さんは不承不承、頷きました。私は彼女を励まし、男爵邸を後にいたしました。
 そして数日後、新聞に荻窪子爵夫人死亡の記事が載りました。
 つい先日に時江さんから相談を受けていただけに気になって、私は荻窪子爵夫人の葬儀に参列いたしました。そこには時江さんと彼女の夫の男爵も参列していました。
 男爵夫妻は、私を見つけて会釈しました。私もぎこちなく挨拶を返しながら、男爵夫妻の様子をうかがいました。時江さんはひどく俯いて青ざめていましたが、男爵はとくに悲しむでも打ちひしがれるでもなく、淡々としていらっしゃました。
 葬儀で、私は参列者たちの陰口を聞きました。亡くなったのは子爵夫人、葬儀に集まる面々も、やはり相応の人たちのようでした。彼らはヒソヒソと、時江さんたち男爵夫妻を遠巻きにして噂していました。
「あの女は、魔女じゃないか」
「死神だ。あの女の周囲で、何人も死んでいる」
 相次ぐ不幸に、人々は不安と恐怖を、時江さんに投影しているようでした。それは言いがかりにしか聞こえなかったけれど、私はハタと、時江さんの周囲で不幸が続いていることに気づきました。
 陰口を真にうけたわけではありませんが、時江さんのまわりで、たしかに何人かの方が亡くなっています。
 時江さんの夫の両親。緒方少将閣下。荻窪子爵夫人。
 私の背筋を、何やら冷たいものが走りました。
 偶然でしょうか? 私は今更に、人が死にすぎているように感じました。もちろん、時江さんのせいなどではありませんが、思わず人々の心ない噂を鵜呑みにしてしまいそうになりました。
 いけない。親友の私が、こんなことでどうするの。時江さんはまた傷ついているに違いない。私は時江さんが心配になり、参列客の間を縫って、彼女を探しました。
 時江さんは、夫の男爵に肩を抱かれて、人気のない一隅に立っていました。私が慰めるまでもなく、優しいご夫君が妻をいたわっているようでした。
「まわりの雑音なんて、気にしちゃあいけないよ。荻窪夫人の死は、君とは関係ない。僕はむしろ、あんなヒステリー女は、いなくなって良かったとさえ思うね」
 妻を励ますためなのかもしれませんが、男爵の言に私は目を丸くしました。男爵はさらに言いました。
「まったく、あいつはひどい女だった。陰でコソコソと弱者をいたぶって喜ぶ、人間として最低の女だ。時江から話を聞いた時は、体に火がつきそうになったよ。死んで良かった。死なないようなら、僕が殺していたくらいだ。時江をいじめる奴は、許さないよ」
 男爵は、美形を怒りに歪め、拳を握りました。その目には、故人への哀悼など欠片もなく、それどころか愛妻の仇の死への歓喜で輝いていました。
 温厚な礼儀正しい青年紳士の激しい一面に、私はただ立ちつくし、いたたまれず逃げ出しました。
 男爵が時江さんをいたく溺愛しているのは知っておりましたが、その情は尋常ではない。愛情の深さを羨むよりも、私はなんだか怖くなりました。
 私は再び、日常に戻りました。けれどまた、訃報を見ることになりました。
 それは、時江さんの叔父で、彼女が富家に嫁いだと知って、蠅のようにたかってきた男です。時江さんは頭を悩ませておりましたが、また彼女のまわりで、人死にが起こったのです。
 死人が多すぎる。私は、慄然となりました。時江さんのまわりで、彼女に仇なす者が、次々といなくなっていく。偶然ではないように思えました。脳裏に浮かぶのは、時江さんを溺愛する夫君の男爵です。
 時江さんは怯えていました。夫がいない時に私を呼び寄せたのは、恐ろしい疑惑のためではなかったのか。彼女の言う、幸せな結婚の落とし穴とは、夫の異常な愛情ではないのか。
 ええ、証拠は何もありません。仮にも男爵です。地位も財産もある人です。私の思い過ごしかもしれません。
 でも、恐ろしいのです。もしかしたらという疑いが、捨てきれないのです。
 時江さんに少しでも害をなした者は、排除されていく……。男爵は、愛妻を苦しめるどんな些細なことも、許さない。
 ああ! なんて恐ろしい! こうして刑事さんに打ち明けるのも、清水から飛び降りる覚悟なのでございます。私が警察に通報したと、男爵に知れたら、無事ではすまないかもしれない。ですから、私の名前は言えません。私が話したということは、どうか内密に願います。くれぐれも、お願いします。
 刑事さん、どうか、お調べになってくださいませんか。私の邪推であったなら、それが一番良いのです。でも、もし、万一、男爵が愛の狂人であったなら……はっきりさせたいのです。これ以上、死人が出るのは怖いのです。私は恐ろしい。そして、親友の時江さんのことが、心配でならない。時江さんの横に貼り付いているのが、優しい夫ではなく、狂人であったとしたら。彼女は、殺人鬼と結婚生活を送っているのです。
 刑事さん。どうか、時江さんを助けてあげてください。私は怖い。関わりたくない。私の勇気は、こうして疑惑を警察に打ち明けるだけで精一杯です。

 女は、疑惑の男爵の名とその身元を告げると、逃げるように店を出ていった。話を聞き終え、米倉は呆然となっていた。
 緒方少将や荻窪子爵夫人の訃報は、米倉も新聞で見た。とりたてて何も思わなかったが、まさかこれが狂人の連続殺人だったとしたら。米倉は席を立ち、署に戻った。女から聞いたことを、米倉は上司に報告した。上司は眉を上げ、髭を撫でた。
「九流院男爵といえば、帝都でも有数の資産家、名家だよ。その御曹司が殺人狂だなんて、とんでもない」
「しかし、緒方少将や荻窪子爵夫人は、実際に亡くなっています」
「緒方少将は政治的な問題に巻き込まれた線が濃厚だし、荻窪子爵夫人の死は殺人と断定されていない。不幸な偶然だ」
「そうでしょうか……」
「そうとも。おおかた、他人の幸せをやっかんだ女が、不幸な偶然を殺人劇に仕立てて吹聴しただけなんじゃないか。九流院男爵が人殺しなんてするわけがないよ」
 上司は、九流院男爵と会ったことがあるかのように言った。どうも、警察としては、確たる証拠もないのに、財産も地位もある青年男爵を探って問題になることを敬遠しているようだった。
「はあ……分かりました」
 米倉は、やや口を尖らせながら、上司の前を辞去した。だが、通報者と直に会い、その真剣で怯えた語り口を見た米倉は、どうもただのひやかしではないと思えた。あの女は、九流院男爵夫妻をやっかむどころか、本当に友人の状況を案じているのではないか。本気で怯えていたのではないか。
 米倉は、この件を放置しかねた。
 一通り、調べてみるだけでもしてみよう。何事もなければ、それでいいのだ。しかし、万一、万一の場合は、とんでもない大事だ。米倉は、内心で密かに、独断調査を決意した。

 調べてみると、九流院男爵には時江という妻がおり、彼が細君を溺愛しているのは、周知のことであった。この時江夫人は、女が言っていた通り、大変な美女であり、平民の出ながらも、大人しい淑女として知られていた。
 そして、時江の周囲では、たしかに人死にが続いていた。九流院男爵の両親に始まり、緒方少将、荻窪子爵夫人、時江の叔父……。
 はたして、不幸な偶然であるのか。それとも……。米倉には判断がつきかねた。はっきり殺されたと分かっているのは、緒方少将だけで、あとは転落死や食中毒など、不慮の死ともとれるものばかりだ。しかし、たしかに死人が多すぎる。米倉は、調べれば調べるほど、あの女の密告が正しいような気がしてきた。
 一度、時江夫人と直に話が出来ないだろうか。疑惑の男爵と接触出来ないだろうか。米倉は、渦中の男爵夫妻に近づき調査したいと考えた。とはいえ、これは米倉の独断調査、大手を振って公務であるとは言えない。警察官だと知られれば、男爵を警戒させるかもしれない。
 一介の刑事に過ぎない米倉が、公務という口実もなく、貴族である九流院男爵夫妻に近づくのは、困難に思われた。調査が手詰まりとなり、米倉は唸った。どうしたものであろうか。
 米倉は、以前の事件で知り合った、橋本男爵夫人に連絡した。
「何の用ですの。もう、市原武雄の事件は、片づいたのでしょう」
 橋本男爵夫人は、いつものケバケバしい格好ではなく、人目を忍ぶ地味な服装で、不満そうにやって来た。この中年婦人は美少年好きの好色マダムで、殺された市原武雄という少年とは、密通関係にあった。
「ええ、武雄くんの件は終わりましたが、また別の事件が立ち上がっておりまして」
 米原は薄暗いカフェーで、橋本男爵夫人に椅子をすすめた。長居したくないのか、夫人は腰掛けようとしなかった。
「それがどうしたというのです。私はもう、関係ないでしょう」
 橋本男爵夫人は、帰りたそうにソワソワした。
「川井くんはどうしました?」
 米倉は訊ねた。川井とは、死んだ武雄に代わって、今現在好色マダムの相手をしている少年である。
「うるさいわねっ! 何の用なのよ!」
 橋本男爵夫人のヒステリックな声に、周囲の客たちは目を剥いた。夫人は慌てて、声をひそめ、背を丸めた。
「米倉さんといったかしら。私、忙しいんですの。用件はお早く切り上げてくださらないかしら」
「これは失礼。先ほども申し上げましたとおり、新しい事件を調査中でして。それで、上流階級の社交界に潜入する必要が生じたのです」
「まあ。紳士淑女の世界で、事件でもありましたの?」
 橋本男爵夫人は目を輝かせた。米倉は苦笑した。
「そうですねえ。詳しいことは調査中で言えないのですが……」
「まあまあ、どんな事件ですの? 教えてくださいな。品行方正な上流社会で、一体どんなスキャンダラスな不祥事が……」
 橋本男爵夫人は、興味津々に食い下がってきた。
「そうですねえ。スキャンダラスといえば、例えば裕福な有閑マダムが、貧しい路地裏の美少年を拾ってペットにしているというような……」
「……」
 たちまち、橋本男爵夫人は色を失った。
「侮辱なさるのでしたら、私、もう帰らせていただきますわね」
「まあまあ。誰も、あなたのことだなんて一言も言っていませんよ」
「用は、何なの」
「社交界に潜入捜査したいのですが、一介の平刑事には、上流階級へのつてがないのです。そこで、上流有閑マダムのあなたに、ご協力いただきたいと思いまして」
「私に、捜査の手引きをしろと?」
 橋本男爵夫人の目に、怯えが走った。
「大丈夫。ご迷惑をおかけするようなことは一切、いたしません。ただ、僕を臨時のボーイにでもしていただいて、社交界に案内していただければそれで結構。余計な詮索はなさらず、黙って協力してもらえませんか」
「……」
「川井くんとは、その後いかがですか?」
 少年買春の弱みを握られている橋本男爵夫人は、項垂れて米倉の頼みを飲んだ。

「ゲッ、いつぞやの刑事さん!」
 臨時ボーイとして潜り込んだ米倉に、川井少年は目を剥いた。
「シッ! 刑事だなんて言うな」
 米倉は、少年の口を塞いだ。目を白黒させる少年に、米倉は耳打ちした。
「僕は調査で秘密潜入している。警察だというのは、黙っていろ。君も、知られたくないことがイロイロあるだろう?」
 川井は口を塞がれたまま、コクリと頷いた。米倉は少年から手を離した。川井は息をついた。
「まったく、心臓に悪いぜ……あんたとは、再会したくなかった」
「ははは。君は、相変わらずのようだね」
「うるせえや。これでも、ちっとは作法を覚えたんだぜ」
「へーえ……社交界にも出してもらえるようになったのかい?」
 九流院男爵夫妻について何か知っているだろうかと、米倉は少年に訊いてみた。川井は肩をすくめた。
「まだ、サロンにお供させてもらったことはネエよ……。でも、今度パーティーに連れてってくれるってさ」
 少年は、嬉しそうに笑った。笑顔になれば、路地裏の不良少年も、年相応にあどけない。
「それは良かったね。まあ、早いところ、こんなやくざな稼業からは、足を洗うんだね」
 米倉が諭すと、少年は舌を出した。
「余計なお世話だい、こんなうまい商売がやめられるもんか。今にババアから清純可憐な令嬢に乗り換えて、上玉の女から女へと渡り歩く、社交界の一流ジゴロになってやるんだ」
 少年は拳を握って目を輝かせた。ろくでもない夢に、米倉は呆れた。

 米倉は橋本男爵夫人に伴われ、社交界の門をくぐった。会場の一部屋だけで、米倉の下宿がまるまる一軒入りそうな、広大で豪華なパーティーに、米倉は目を瞬かせた。
 まったく、金というやつは、あるところにはあるのだなぁ。米倉は舌打ちしつつ、会場に集まった面々を見やった。九流院男爵夫妻は、今日のパーティーには来ていないようだ。米倉は肩を落とした。
「あら、米倉さん」
 名前を呼ばれ、米倉は驚いて振り返った。
「あっ……」
 米倉は目を開いた。市原武雄の件で知り合った、六道財閥の令嬢、紀代子が立っていた。思わぬ所で知り合いに会い、米倉は面食らった。
 紀代子は、変わらぬ清楚な美しさをまとっていた。米倉は眩しく目を細めた。ただ、その服装は華やかなドレスではなく、落ち着いた暗い衣装だった。若い娘らしくない。
「武雄さんの喪に服しておりますの」
 紀代子の寂しい微笑に、米倉は胸を突かれた。市原武雄殺人事件は、米倉ら警察にとってはもう解決済みの終わった出来事になっていたが、紀代子のなかでは、終わっていないのである。残された者には、いつまで経っても、事件は終わらないのだ。新しい事件に追われ、武雄の件が薄れていた米倉は、なんだか申し訳ない気持ちになった。
「お久しぶりですわね。どうなさったのです?」
 刑事が社交界のパーティーに顔を出していることに、紀代子は首を傾げた。
「実は、ある事件の調査のため、ボーイとして潜入しているのです」
「まあ」
 紀代子は不安そうに柳眉をしかめた。
「いやですわ、また何か、不幸なことでもありましたの?」
「いえいえ、紀代子さんが怖がることはないですよ。事件かどうかも、あやふやなのですから」
 米倉は紀代子をなだめ、適当な世間話を交わした後、さりげなく九流院男爵夫妻について訊ねた。
「まるで絵に描いたような、素敵なご夫妻ですわね」
「美男美女の二人だそうですね」
「ええ……まるで、二人で一人のような……いつもご一緒で……」
 パーティーなどの際、九流院夫妻は必ず夫婦で出席し、一人だけが出るということはないようだ。それは仲が良いようにも見えるが、見方を変えれば、夫が妻を束縛しているようにも思える。
 片時も妻を手放さぬ夫。それは愛情深いというより、執念深いように感じられた。
 そんな偏執的な夫なら、妻のために人を殺そうとさえ、思い詰めるかもしれない。
 米倉は、パーティーに集まった紳士淑女の間を回り、聞き耳を立てた。そこでチョクチョクと、華やかな社交界の醜聞を耳に挟んだが、米倉が知りたい情報はなかった。米倉は肩を落とし、次回のパーティーに期待をかけた。

 後日、米倉は再び、社交界のサロンにお供することになったが、橋本男爵夫人についていくのは、米倉だけではなかった。腕利きジゴロを目指す不良少年川井も、女主人の後について、社交界の門をくぐった。
「わあ、これが社交界かぁ」
 川井少年は、上流階級のサロンに、目を丸くしてはしゃいだ。米倉は肩をすくめ、九流院夫妻を探した。
 夫妻は、ひっそりと会場の隅に立っていた。いろいろ調べてはいたが、米倉は九流院男爵夫妻を実際に見るのははじめてだった。なるほど、噂に違わぬ、美男美女だ。とくに時江の美貌が素晴らしい。俯いた陰りのある表情が、一層美形に磨きをかけている。震えのくるような、じっと見つめているとどこか麻痺してしまいそうな、凄い美女だ。この女なら、九流院男爵が狂ってしまうのも、分かるような気がした。
 話しかけてくる者の受け答えは、もっぱら夫の九流院明彦がしていた。妻の時江は、夫に隠れるように、隅で俯いていた。夫が横にいたのでは、時江は何も話せないだろう。
 さてどうにかして、九流院夫妻を別々にして話を聞いてみなくては。米倉が首を捻っていると、川井少年に肩を掴まれた。
「ねえ、ねえ。あの綺麗な夫婦が、刑事さんのエモノかい」
 川井は興奮して言った。
「馬鹿、こんな所で刑事なんて言うな」
「スゲェな、なんだい、あの別嬪は。あれだけ美人だったら、おれ、金貰わなくてもいいよ」
 はじめての社交界に舞い上がった川井は、時江の美貌にさらに有頂天になった。まるで涎を垂らした犬のようだ。米倉は頭を抱えそうになった。
「刑事さん。おれ、捜査に協力するよ。あの美人のこと、探ればいいんだろ。任せてよ」
「おい、ちょっと待て」
「いいからいいから。ジゴロの腕の見せ所だい」
 川井は米倉の制止を振り切り、鼻の下を伸ばして時江のほうに歩いていった。
「まったく、あの小僧……」
 米倉は舌打ちしたが、これで九流院夫妻を別々にさせることが出来ると、思い直した。
 米倉が川井に続いて夫妻に近づくと、派手な音が響いた。米倉が目を丸くすると、なんと川井は、時江夫人のドレスに、カクテルをぶちまけていた。なにをやっているのだ。米倉は目を覆いたくなった。
「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 川井は飛び上がって謝った。
「何をするんだ!」
 怒ったのは、時江ではなく彼女の夫だった。
「なんてえボーイだ。責任者は誰だ、クビにしてやる!」
「ひぃっ。ごめんなさい。ぼく、今日がはじめてで慣れなくて……ごめんなさい。許してください」
 川井は、目に涙をため、必死に謝った。あどけなさの残る美貌を伏せ、細めの肩を震わせる。川井の太々しさを知る米倉は、少年の有様に唖然となった。まるで別人、いたいけな少年のようではないか。
「あなた。許してあげましょうよ。可哀想じゃない」
 少年の様に哀れを感じたのか、時江が夫に取りなした。愛妻に取りなされ、男爵は不機嫌に川井を許した。川井は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。申し訳ありませんでした、ありがとうございます」
 川井は、感謝するように、時江を見つめた。上目遣いだ。そして屈託のない笑顔を浮かべる。
「奥様、すみませんでした。お着替えをご用意いたしますので、こちらへ」
 川井は時江の手を引いた。去り際、川井は米倉にウィンクした。米倉は声をあげそうになった。
 川井はわざと時江にカクテルをぶっつけて、無垢な少年を装い、同情を引いて彼女を連れ出したのだ。
「やるなあ、あいつ……」
 米倉は、感心するやら呆れるやら、呟いた。九流院男爵もさすがに着替えにまで貼り付くわけにはいかず、夫妻は別れ別れになった。今がチャンスと、米倉は時江の後を追った。
 川井は、さりげなく時江の肩に手を置いて、別室に消えようとしていた。米倉が追いつくと、川井は米倉をトンと押し返し、彼の鼻先でドアを閉めてしまった。
「川井!」
 米倉はドアを叩いたが、鍵がかかっていた。なんと、米倉を締め出し、時江と二人きりになって、彼女をたらし込むつもりらしい。
「なんて奴だ」
 米倉は忌々しく呟いた。やはり、不良少年などあてにするものではない。
 仕方なく米倉はきびすを返し、会場に戻った。一人になった九流院男爵に近づく。
「こんにちは、九流院さま」
 米倉は、ボーイ然として、男爵に話しかけた。男爵は低く挨拶を返した。
「うちの新米ボーイが粗相をして、申し訳ありません」
「まったくだ。どういう教育をしているんだね」
 年端のいかぬ少年給仕が些細な粗相をしただけで、ずいぶんなご立腹だ。米倉は今更に、九流院男爵の妻への執着を見た。
「男爵さまは、奥様を愛されておいでなのですね」
「当然だ。あんなに美しい女は他にいない」
 男爵はうっとりと目を細めた。米倉は追従し、時江を褒め称えた。男爵はますます恍惚とし、得意そうに胸を張った。彼にとって時江は、妻であるまえに美術品であるようだ。米倉は男爵の機嫌を取りながら、不幸があった日のアリバイを、チラチラと訊ねてみた。
 たいてい、男爵は時江夫人と一緒にいたが、死人が出た日は、所用で離れていた。アリバイがある日は、死者は食中毒など、毒殺とも疑えるような死に方をしていた。毒殺なら、被害者から離れていても行える。
「どうかしたかね?」
 疑惑が深まり、青ざめていく米倉を、男爵は怪訝そうに見た。男爵に覗き込まれ、米倉は思わず退いた。
「すっすみません……ちょっと……」
 目の前の紳士は、殺人鬼かもしれない……米倉は怖くなり、男爵から離れた。
 米倉は会場を出ると、息をついた。冷や汗を拭う。
「人殺し……」
 米倉は呟いた。男爵が殺人鬼であるのは、もう間違いないように思えた。実の親までも手にかけ、その後見境なく殺戮を続けている狂人が、ひとかどの紳士として、社交界で大手を振って野放しになっているのだ。男爵がこれからも、妻のために人殺しを重ねていくことは、想像に難くない。
「滅茶苦茶だ。どうにかしなくては」
 しかし、これだけの疑惑が揃っていても、すべては状況証拠。確かな物的証拠がなければ、警察は動けない。あの殺人鬼を捕まえることが出来ない。
 どうしたらいいのか。どうしたらいいのか。米倉は歯を噛んだ。

 米倉が下宿に戻ると、橋本男爵夫人から電話があった。
「川井が、帰ってこないのよ」
「川井くんが?」
 米倉は目を見張った。
「猫みたいな子だから、気まぐれに出ていっちゃうこともあるけれど、今日は給料日だから絶対屋敷に戻るはずなのに……」
 受話器を握る米倉の手が、汗ばんだ。
「ねえ、米倉さん。川井は、変な事件に巻き込まれたんじゃないでしょうね。困りますよ、また武雄のようになっては……」
 橋本男爵夫人は、川井の心配をするよりも、彼に何かあって自分に累が及ぶことを案じているようだった。米倉は、途中から、橋本男爵夫人の声が聞こえなくなっていた。
 川井が消えた。米倉の脳裏に、少年の死体が浮かぶ。まさか。
 川井は、九流院男爵に殺されたのではないか。あの偏執の青年紳士は、妻に粗相をした少年給仕を許すことが出来ず、米倉が離れた後、速やかに川井を始末したのではないか。
 あの男爵ならやりかねない。米倉は慄然とした。
 翌日には、米倉の戦慄は焦燥に変わった。米倉の独断調査に首を突っ込んだために、川井が死んだのだとしたら。米倉は、川井の失踪に責任を感じた。
 橋本男爵夫人宅や、川井を派遣した口利き屋などに少年の消息を問うも、なしのつぶてだった。米倉は川井の蒸発を警察に届けたが、不良少年の失踪など、取り上げてもらえなかった。死体が出たのなら、警察も動いたかもしれないが、川井は跡形もなく消えてしまっていた。
 川井は、路地裏の少年だ。浮浪児も同然だ。殺されても人知れず遺棄され発見されなければ、誰も彼の死にすら、気づかないのだ。武雄もそうであったが、米倉は改めて、帝都の陰に生きる貧しい人間の無力、儚さを知った。
「川井……」
 九流院男爵が異常者であることは分かっていたのに、むざむざ少年を死なせてしまったことに、米倉はたまらない痛痒を抱いた。
 川井が殺されたのは、僕のせいだ。その責任を取らなくてはならない。川井は不良少年であっったが、殺されてもいい人間などいないのだ。米倉は、殺人鬼と対決する決心をした。

 米倉は、九流院邸に電話をかけた。橋本男爵の名を出すと、九流院明彦が電話口に出た。
「先日うちの少年給仕が粗相いたしましたドレスのクリーニングが出来ましたので、お渡ししたいのですが、××通りのカフェー『R』にお越し願えますか」
「それなら、郵送で送ってくれたまえ」
「ごもっともですが、奥様のドレスを洗濯していて、チョット妙なものを発見したものですから。郵送でお返しするのはどうかと思いまして……」
「なんだ、それは。どういうことだ?」
「ドレスをご覧になればお分かりになります。では、お手数ですが、『R』までご足労のほど、よろしくお願いいたします」
 男爵はまだ何か言っていたが、米倉は電話を切った。
 カフェー「R」は、うらぶれた通りにある、怪しげな店である。米倉が待っていると、九流院男爵は怪訝な顔をしながら、夫人同伴でやって来た。時江は、青い顔をしていた。
「なんなんだね」
 男爵は、不機嫌に米倉の前に座った。夫人も黙って、夫に従う。米倉はドレスを男爵に返した。男爵はドレスを検分した。
「何もおかしい所はないじゃないか」
 男爵は米倉を睨んだ。
「こんな所まで足を運ばせて、何かと思えば……どういうつもりなんだ」
「それはこちらの台詞だぜ、男爵さん」
 米倉は、蓮っ葉な口調で言った。男爵は目を開いた。
「このドレスを汚した少年給仕だが……ありゃ、オレの弟分でな。こいつが、あんたの奥さんに熱を上げて、消えちまったのよ」
「それがどうした」
「どうしたじゃねえよ。あんた、弟分がどうなったか、知ってんだろ? あんたの奥さんのまわりじゃあ、死人が行列じゃねえか」
「あなた」
 時江が怯えて、夫の腕にすがりついた。男爵は妻を支え、立ち上がった。
「失礼する。橋本男爵は、何だっておまえのようなゴロツキを雇っているんだ」
「ゴロツキは、親分子分の連帯が強いんだぜ。奥さん、美人だな」
「……なに?」
 九流院男爵は振り返った。米倉は安タバコをふかした。
「妻がどうした?」
「どうもしやしねえよ。ただ、弟分がやられたなら、兄貴がやり返すのが、ゴロツキの流儀さ」
 米倉は、時江になめるような視線を向けた。時江は震えて夫の後ろに隠れた。
「貴様、妻をどうするつもりだ?」
「さあねえ……クククク」
「貴様、妻に近づいたら、許さんからな!」
 九流院男爵は米倉に掴みかかった。女給らの悲鳴があがった。米倉はタバコの火を、男爵の長い指に押しつけた。
「ぎゃっ」
 男爵が手を離すと、米倉はカフェーを出た。
「はあ……」
 米倉はため息をつき、震える体を押さえた。これで、あの殺人鬼は、僕を殺しにやって来るだろう。そうなれば、殺人の現行犯で逮捕できる。米倉は、懐中のピストルを、汗ばむ手で握った。

「どうなっているのよッ!」
 米倉の下宿に、橋本男爵夫人が駆け込んできた。
「川井はいなくなるし、九流院男爵からは抗議されるし……あなた、一体、何をしでかしたの! なんで私が、九流院男爵に責められなきゃならないの!」
「それは申し訳ありません。今度九流院男爵から苦情が来たら、全部僕に回してください」
「当たり前よッ! うちは関係ないんだから、そっちで片付けてちょうだいよ!」
 まくしたて、夫人は出ていった。米倉はやれやれと肩を落とした。
 ほどなくして、米倉の元に直接、九流院側から連絡が来た。だがそれは、夫ではなく妻の時江からだった。
「あのウ……米倉さんでしょうか」
 受話器から聞こえる時江の声は、怯えたように小さかった。
「はい、そうです」
「あのウ、少年給仕の件で、当家と米倉さんの間で、行き違いがあったようで、そのウ……」
「横に、ご夫君がいらっしゃるのですか?」
「はい……」
 米倉は、時江が怯えているのが合点がいった。
「ご安心ください。先日は失礼を申し上げましたが、あれはご主人を挑発するための演技です。僕は奥さんの味方です。きっと、助け出してさしあげます」
「あの……どこかで、お話できませんか?」
「分かりました。お屋敷を抜けられますか?」
「はい、どうにか……。あのウ……朝八時、××駅のほうに、お越し願えますか。川井さんのことで、お話が……」
「川井が、どうなったか、ご存じなのですか!」
「大きな声をお出しにならないで。主人に気づかれ……」
 途中で、電話は切れた。

 米倉は、指定された駅に向かった。朝は、勤め人で混み合っていた。あまりの混みように、米倉は下りるべき駅で下りられなかった。なんだって時江は、こんな時間帯を指定してきたのか。夫が粘り着いているから、抜け出せる都合がつかなかったのかもしれない。
 余裕を見て下宿を出たのに、待ち合わせの××駅に辿り着いた時には、五分遅刻してしまっていた。米倉は人混みのなか、時江を探した。
 列車が急ブレーキをかけるものすごい金切り声が、耳をつんざいた。米倉は飛び上がった。
「人が線路に落ちたぞ!」
「若い男が、轢断されたぞ!」
 悲鳴、怒声、混乱。ラッシュ時の人身事故に、ホームは騒然となった。
 米倉は、唖然となった。人身事故に居合わせるとは。線路を見ると、米倉と同じくらいの年格好の青年の体が、二つに千切れていた。残酷な光景に、米倉は顔を背けた。
「時江さん!」
 視線を背けた先に、時江の姿を見つけ、米倉は声を上げた。時江は振り返った。
 途端。
「ひいいいいいいいい!」
 時江の唇から、黒板を引っ掻くような凄まじい絶叫があがった。まわりの人々は、ぎょっとして彼女を見やった。
「ひいいいいい! ひいいいいいい!」
 時江は、周囲の注目も構わず叫び、へたりと座り込んだ。その目は恐怖に見開かれ、まっすぐに米倉を見ている。まるで、幽霊にでも会ったかのような反応だ。なんなのか。
「……!」
 米倉は、ハッと目を見張った。
 米倉は、もう一度、線路の死体を見た。米倉と同じ背格好の青年。後ろ姿は、米倉によく似ている。
 米倉の総身に、戦慄が走った。
「時江さん!」
 米倉は、腰を抜かしている時江の側に、駆け寄った。男爵の姿はない。時江一人だ。
「あなたは、僕と間違えて、男を突き落としましたね!」
 殺人鬼は、九流院男爵ではなかった! このたおやかな令夫人が、恐ろしい人殺しだったのだ。彼女は米倉を呼び出し、ラッシュに紛れて轢殺するつもりだったのだ。
 なんという。殺人鬼の正体に、米倉は唾を飲んだ。
「川井も、あなたが殺したのですか。川井はどこに行ったのです!」
「な、なにを言っているの? 言いがかりはやめてちょうだい」
 幽霊ではなく、殺したのが人違いであったと分かり、時江は若干、落ち着きを取り戻したようであった。米倉の手を振り解こうと藻掻く。
「とぼけるのは、やめてください。あなたが男を突き落とすのを、僕は見ました」
 本当は見てはいないが、米倉は言い切った。もはや、この夫人が犯人に違いないのだ。取り逃すわけにはいかない。それでも時江は、頑強に認めなかった。
「何を見たというの。証拠はあるの。何を見たか知らないけれど、あなたなんかゴロツキじゃない。誰も信用するものですか」
「僕はゴロツキではありません」
 米倉は、警察手帳を見せた。瞬間、時江は固まった。彼女は暴れるのをやめた。
「九流院時江さん。あなたを、殺人の現行犯で、逮捕します」
 米倉は、九流院男爵を捕まえるために用意した手錠を、時江の細い手首にかけた。
「……」
 時江は、虚ろな視線を、手錠に落とした。
「どうして……」
 時江の長い睫に、涙がともった。
「どうしてみんな、私の幸せの邪魔をするの……」
 時江の白い頬に、真珠のような涙が伝っていった。

 警察に連行された時江は、素直に犯行を供述した。彼女の言から、川井の居所も分かった。
 川井は、寂れた埠頭の倉庫に、縛られて転がされていた。ひどく衰弱していたが、幸い、命はあった。時江が彼を生かしておいたのは、いろいろと訊いてくる川井に、不審を抱いたからだ。
 米倉が独断捜査で時江の近辺を探っていることは、時江にも薄々分かっていた。誰かが私のことを嗅ぎ回っている。不審に思っていたところに、川井の登場だ。この少年が余計な詮索をしている犯人かと思ったが、どうも川井は誰かに命じられているだけらしい。
 一体、誰が何のために私のことを探っているのか。怪しんだ時江は、川井を監禁し、拷問した。
「もし刑事さんのことを言ったら、おれは殺されると思った。喋ったら用済み、殺される。だから、死にそうになっても、黙っていた」
 病院のベッドで震えながら、川井は言った。少年から事情聴取しながら、米倉は頷いた。
「それは賢明だったな」
「綺麗な顔して、とんでもない女だよ、あいつ……私の幸せな生活を邪魔する奴は皆殺しだって……」
 幸せな生活。夫に愛され、裕福に不自由なく暮らしていく。そのために、時江は実に六人もの人間を抹殺したのだ。凄まじい女である。まったく、女は恐ろしい。こんな魔物を相手にしていたのでは、命がいくつあっても足りぬ。
「もうジゴロはやめるんだな」
 米倉は改めて、川井に諭した。川井は、少し口を尖らせ、米倉を睨んだ。
「今回はドジ踏んだけど、この商売やめる気はねえよ」
 こんな目にあっても、まだ懲りないのか。米倉は呆れた。
「いつか死ぬぞ、おまえ」
「うるせえ。おれは市原武雄みたいにくたばったりしねえし、九流院時江みてえに捕まったりもしねえ。美貌と舌先で、うまく世の中泳いでやるさ。それしかおれにはねえんだからな」
 川井は、フイと横を向いた。おれみたいな奴は、何が何でも這い上がるしかないんだと、吐き捨てるように呟く。その横顔を見ていて、米倉はふと、時江と重なった。
 時江は恐ろしい女だが、それは彼女が女だから魔性を秘めていたというわけではなかったのではないか。
 結婚によって不幸な境遇から救われ、それを守るためなら殺人すらも厭わなかった時江。
 美貌と舌先三寸で、路地裏からの這い上がりを目指す川井。
 二人の底に流れているものは、同じなのかもしれない。貧困。孤独。立場の弱さ。
 時江のことは、稀代の毒婦として、新聞でしきりに書き立てられている。それはその通りであるが、世間はどうも、彼女が犯した大量殺人にばかり注目していて、その動機となった逆境と幸福への執着を、見過ごしているのではないかと、米倉は思った。もちろん、どんな動機があったにせよ、殺人が許されるわけではない。だが米倉は、川井の少年らしかぬふてくされた横顔を見ていて、なんだかやるせない気持ちになった。
「川井くん。君は、殺されるよりも、殺す側になるかもしれないな」
 この何も持たぬ飢えた少年は、手に入れたものを守るためなら、何でもするだろう。時江のように。
「なんだよ?」
 米倉の突飛な言に、川井は眉を寄せた。米倉は少年に、憐憫と戦慄の視線を投げた。
「君にも、男妾という賤業に執着するだけの恵まれない境遇があるのだろうが、だからといって君が人を殺した時は、僕は真っ先に君に手錠をかけるよ」
「何言い出すんだよ、縁起でもねえ」
 面食らう川井を置いて、米倉は病室を出た。廊下の窓からは、ひまわりが見える。太陽に向かって届かぬ手を伸ばすようなひまわりが、なんだか悲しく見えた。


 終わり

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